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【断片小説】ベティ、マイク、それからキャシー

幾人もの東の寡黙な読書家から、幾人もの西の雄弁な研究者の手にまで渡り歩いてきた、数多の古書が、独特のにおいを路地に放っていた。町は古本市場で賑わっている。ここは日本の真ん中、東京都心から少しはずれ、神保町。
 今日は良く晴れた日だ。空には雲一つなく、太陽は熱心に地球を暖めようと懸命に努力していた。溶けかけの板チョコのような気だるさが、黒々とした照り返しのアスファルトから漂っている。そして時折、針のような冷たい風に気だるさは身を縮める。男はいつものように喫茶店のテラス席に座り、トールサイズのブラックコーヒーを飲みながら、本を読んでいた。それは、長年に渡って世間を賑わしてきたとある天才作家の新刊であった。しかしその内容はこれまでの作品の焼きまわしと言ってもいいほどだった。彼は有名作家の才能的枯渇を嘆いた。それで男は本を読むのを止め、スマホを取り出しサブスクリプション音楽配信アプリを起動した。
通りを流れる騒音には様々なものが含まれていた。トラックの音や椅子でふんぞり返って大声で電話しているサラリーマンの話声とか、救世軍協会の音楽隊が放つホーンの音、学校が早く終わってわいわいと横に並びながら騒いでいる少年少女たちの幼い声だとか。それらがいっしょくたになって産み出した騒音だった。パチンコ屋かよ、と彼の友人ならそうツッコむだろう。とにかく混沌で混濁でカオスなのだ。しかしそのような騒音は、ブルートゥースイヤホンから流れてくる巨匠達のクラシック音楽によって著しく中和されていった。ヨハンシュトラウスの描く音楽的ピークが、その騒音がもたらす混沌に一定の秩序を与えているのだ。どういう理屈なのかは分からない。

向かいのタワーマンションを時折眺め、あの避雷針の刺さっている屋上から飛ぶことが出来たならどんなに気持ちいいだろうと、コーヒーに三回目の口づけをしたあとで男はふと思った。彼はあまりコーヒーが得意ではない。ないがしかし、飲まないわけにはいかない。社会人とはそういう何か受け入れがたいものをどういうわけか習慣づけてしまう生き物だ。

目の前をランドセルを背負って通り過ぎていく少年少女たちを見ていると郷愁に駆られる。
あの子たちは今、どこで何をしているのだろう。
ベティ、マイク、それからキャシー。君たちは今、どこにいるのだろうか。
彼は彼の古い友人をそう呼ぶ。出会ったのは確かまだ小学生の頃だ。卒業して以来一度も会っていない。あんなに仲良く一緒に遊んでいたような気がするのに。変なあだ名で呼び合っていたものだから本当の名前をうまく思い出せない。それにもう十二年は昔の話になる。
俺はなんて呼ばれていたっけ? 彼は顎をつまみしばし頭を巡らせる。運動場、ジャングルジム、保健室、渡り廊下、中庭の噴水、靴箱…。そのどこかに過去の自分たちの片りんが引っかかってやしないだろうかと思いながら。体育館、ススキ、花壇、小さな動物園、リンゴの木…。リンゴの木…。
そこで彼は思い出す。ニュートンだ。彼はニュートンと呼ばれていた。科学者アイザック・ニュートン。彼の本名を文字ってあだ名がついたんだ。彼がそもそも理科が得意だった、というのもある。

となると、マイクもベティもキャシーもみんな名前をもじったあだ名だったのだろうか。たぶん、そうに違いない。小学生の考えるようなことだ。ちょっと英語を習ったくらいで名字の漢字をそのまま英訳して呼び合ったりしたものだ。リバーマウスだとか、ジャングルマウンテンだとか。そういった類の言葉遊びだ。


そして彼、ニュートンはまたコーヒーを一口飲んだ。過去の幼い自分たちのとんちき具合に驚いている。まるで古い友人たちの本名を思い出せない。夏の同窓会にみんな来るだろうか。来たとしても、互いを認識できるだろうか。あの頃の友人どうしだと。また友達になれるだろうか。
彼は、腕を上げ時間を確認した。昼休みはもう少しで終わりだった。
あぁ、マイク、ベティ、キャシー。君たちは元気にしているだろうか。
ニュートンは才能の枯渇した天才作家の新刊を通りに並ぶ書店の売り棚に適当に差し込んで仕事に戻った。才能の枯渇と漂うかび臭さはひどくお似合いな気がした。


自宅に帰り、彼は卒業アルバムを取り出す。そこで答え合わせを始める。6年2組。
荒城修一郎
相崎啓介
瓜山奏弥
寺戸康太
長塚恭一
長谷部修一郎

森田紘一
三家哲
笹田健司
渡辺文太
柊百合

興梠茉莉
香椎潤
沢田恵里

反島杏
石崎恵麻
織染英梨
湊恵
勝田玲

篠田飛鳥

その写真アルバムの中に彼はマイクとキャシーとベティを見つける。ベティ達だけじゃない。ウィリアムやアレックス、マリリン、リリー、ナタリー、ダーウィン、アニー…。そう言えばなぜか互いをそう呼んでいたことを思い出す。

彼はとても古い友人たちに会いたくなった。と同時にどうして卒業してからピタリと遊ばなくなったのか、それが不思議に思えた。なにがあったのか今や思い出せない。記憶の蓋は重く、古代の棺のそれと同じくらい閉ざされている。
ただ、とにかく友人たちに会いたくなった。

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