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ひげをさする

残暑の蝉たちのひっ迫した鳴き声も収まり、早朝の涼しい風が開いた窓からカーテンの裾を揺らした。今夏の、蝉たちがもたらす死と繁栄の表裏一体的な強迫観念とも、ひとまずお別れの兆しである。朝7時30分には、目覚まし時計が鳴る。プルルルル。壁の薄い隣の部屋からそれは鳴り続ける。まるで、知らない人間からのコール音のようで、僕にはそれを(物理的に)止める手段を持たない。

ひと夏の役目を終えたクーラーが沈黙を纏って僕を見下ろしている。今年も過酷な暑さだった。こんな状況下で最初オリンピックを強行しようとした、あるいは来年になっても決行しようとしているIOCに少々の疑問を感じる。洗面所の前に立ち、鏡の水垢も気にせず、割かし近い道路を巨体を揺らせて通過していく貨物トラックのことを思う。道行く人々、マスクを付けない人々、反政権デモ、BLM運動、ぶつかる正義、総理の辞任、不寛容とマナーについて考える。自殺、そして誘導、ドラッグ、さらに誘惑、個人間価値観の蹂躙がもたらす社会的分断について思いを巡らせてみる。二郎系ラーメンみたいに積みあがった洗濯物と、残り少ない歯磨き粉と、賞味期限の近づいた卵を思い出す。そういった様々を見ながら、僕は顎ひげをさする。僕には顎ひげをさする癖がある。インスタグラムの広告に従って、脱毛サロンに通いつめればこの癖も治るものだろうか?

世の中に少し敏感になりすぎていただけだ。

こんなのどかな休日には、猫になりたいと思う。
猫のひげを思う。猫はひげをセンサーにして、周りの状況を読み取り、事細かに認知する。平衡感覚を保ち、獲物に触れた時の振動から、それの生死を見極める。そしてまた僕は伸び切ったひげをさする。卵をフライパンの上に落として、黄身が円環を逸脱して白身とゆるやかに混ざっていく様子を眺める。胡椒をふりかけ、水を注ぎ、蓋を閉める。タンパク質が一通り変性していくまでの経過観察をしながら、ついでに自分の人生についてひとつ手に取って見つめてみるのもいいなと思った。
不思議なことだが、大人になると人生単位の決断は前触れなしに突然やってくることがある。卵の殻を割るよりも簡単な決断などそうそうない。大体は気難しいものだ。だからこそ丁寧に繊細にそれでいて思い切った決断をしなければならない。僕は顎ひげをさする。とりあえず散髪に行こう。

神田の小規模なビル群の地下にそのサロンはある。少し割高ではあるものの上京以来そこを利用している。
「美容師と理容師の違い、御存じですか?」僕を担当する理容師が尋ねる。
「いえ」
「理容師はカミソリを扱うことが出来ます。美容師には認められていないのです。鋭利な刃物を扱うんです。ぞんざいに扱えば、人を簡単に傷つけかねない。これを使う資格があるか、国家が精査し認めてくれないと、私はこうやってお客様のひげを剃れないんです。あとはお客様との信頼関係ですね。これが重要です」
ジョニー・デップの映画を思い出した。スウィーニー・トッドだ。
僕よりも年若きその理容師は、コロナ禍でやはり仕事を失いかけていた。そんな状況下でもなんとか自分の能力・資格を見極め、プライドをもって仕事に取り組んでいた。僕の顔全体にクリームをつけ、熱いタオルでしっかり毛穴を温めて、それからカミソリを僕の頬に当てた。耳小骨を伝ってジョリジョリとひげが剃り落されていくのが聞こえる。まな板の上の魚になったような気分だった。理容師は魚の鱗を取るみたいに、丁寧に集中して僕のひげを剃っていった。
顔中の産毛まで剃ってもらった。
見送りされる際、かの理容師はこう言った。
「僕たちにも出来ないことがあるんすよ。まつ毛エクステは認められてないんす」と理容師は年相応の話し言葉で笑いながら見送ってくれた。

『君はまだ若く、人生の辛酸を知らん』『いずれ学ぶ』とは、スウィーニー・トッドの劇中のセリフだ。だがこの若い理容師はきっと既にそれを味わい、学び、矜持を以て仕事に取り組んでいる。自らの能力と役割をわきまえている。


蝉の死体がコンクリートの上で6本の脚を閉じたり開いたりしている。夏の終止符といった感じだ。自然毒によるゾウの大量死、クジラの座礁、感染者数の無意味な更新報道。
そんなマクロな問題よりも、自分のミクロな物語についてまたつぶさに考えなければならないのだ。

つるりとした顎をさする。
少し世の中に敏感になりすぎていただけだ。僕はまだ若く、人生の辛酸をまだ知らない。だがいずれ学ぶ。

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