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どうしようもない空腹

元総理が糾弾に倒れたというニュースが世界を駆け巡った日の夜、僕は空腹を感じていた。どうしようもない空腹だった。民主主義への重大な冒涜だとか、ますます日本が堕落していくなとか、ふむふむテレビを見ながら、僕は伸びた顎ひげをさすっていた。父親から突然電話がかかってきて、こんな大変な日になんだろうと少しめんどくさげにスマホを手に取ると、実家の愛犬が危篤だと告げてきた。

1週間前にトリミングに行ってからというもの、ご飯を食べなくなっていた。トリミングによる老犬への負担はとても大きく、ストレスによって体調を崩す例も多々ある。それに連日の猛暑もある。僕が妹のように思っている犬—彼女—は、単に夏バテしているのだろうと思っていた。
「泣いてんのか」
「うるさい」
こんなときにデリカシーのない父親だ。泣いてはいなかった。ただ、怖かった。

彼女は小型犬の寿命をとっくに過ぎた年齢になっていた。いつのまにか白内障になって眼圧を下げる目薬が必須になり、いつのまにか腎臓を悪くしていて、食も細くなっていた。
「そろそろ覚悟が必要です」と獣医師が告げたのは1年前。
「うちの犬も最期はそんな感じだった」と幼馴染が話していたのは半年前。
覚悟を決めておく時間は、少なくともそれだけはあったはずだ。

でも、そんなの全然意味がなかった。怖かった。

思い返せば、僕はあんまり良い飼い主とは言えなかったかもしれない。おしっこやうんちの処理を弟に任せてサボったことは1度や2度じゃないし、彼女を利用して女の子と散歩デートしたことだってある。夜通し吠える彼女を無視したこともある。
離れて暮らしてもう10年。家族の生活環境も大きく変わっていった。家族の誰もが彼女にかまってあげる時間がなくなっていたのはどうしようもないことだった。年老いた彼女が少しでも寂しくないように、無責任にも僕は母親にこういった。「寂しくないように、毎日10分でも30分でも抱き締めてあげて」などと。定期健診時に、獣医師は母からそれを聞いて優しく笑っていたそうだ。



江國香織の『デューク』という作品が好きで昔何度も読み返していた。少しキザだけどロマンチックで愛に溢れた美しい物語だった。



彼女が家に来た日。名前を決めるイプサムの車内。清涼飲料水のCMキャラクターみたいに可愛いとか、なんだかたくさん食べるみたいだからとかそんな理由で彼女の名前を決めた。エクレアみたいな体に、平安貴族の眉みたいなワンポイントが、対の目の上にあった。キラキラした真っ黒な瞳。胴長短足で尻尾を振りながらヒョコヒョコ歩く愛らしさ。
「可愛いところは私に似て、食い意地が張ってるところはあんたに似てるね」などと姉は言った。
「余計なお世話だよな」毛むくじゃらの彼女に頬ずりしながら言うと、彼女はきょとんとし、僕の顔を舐めてきた。
そう言えば彼女はエサをもらうときはいつも「待て!」と命令して1から数字を数えていくうち、9まで数えたところで自分の名前を呼ばれたのか勘違いして、皿にガツガツ食いついていた。感心するほどによく食べた。



彼女の体力は限界だった。脱水と貧血が進み、体温は1.5度も下がっていた。体に毒素が溜まって、点滴を入れて無理に毒素を尿として排出させても、一時しのぎにしかならないようだった。そうだ。彼女は腎臓を悪くしていたんだった。
「あと何日ももつわけではないと思います、数日でしょう」と獣医師は言った。

テレビ電話の向こう側で、ブランケットを被って横たわる彼女の名前を呼んだ。息が浅く、目は虚ろだった。口からずっとよくわからない液体が零れていて苦しそうだった。そういえば耳も悪くなっていたはずだ。目も見えず、耳も聞こえず、電話じゃぬくもりを感じることも出来ない。
傍にいて抱き締めたかったけど、かなわなかった。どうして俺はこんなとこにいるんだと嘆いた。ただ、ぼくは腕を組んで虚空を抱いていただけだ。
それが彼女の生きている姿を見た最後だった。

翌未明。彼女は冷たくなっていた。朝5時になんだか胸騒ぎがして、突然僕は目覚めた。何か夢を見ていた気がするけれど、少しも思い出せなかった。それから1時間して、母から電話で彼女が逝ってしまったことを告げられた。

泣くと思っていたけれど、全然泣かなかった。
世界が色を失くすと思った。そういうわけでもなかった。朝からセミの鳴き声が聞こえた気がした。

そこからは、供花や骨壺や火葬や、葬式や収骨など事務的なことも全て姉がしてくれた。
僕はとても空虚な気持ちで、それでいてそんな態度を悟られないように仕事をこなすしかなかった。元気ないですね、とあまり交流もない同僚がすれ違いざまに挨拶してきた。夏バテで、と笑いながら頭の後ろを搔いた。




帰り道、ふと風が草の匂いを運んできた。
夏の匂いだ。一緒に堤防に座り込んで、伸びきった河川敷の草花の中に埋もれて、僕と彼女はよく話をしていたことを思い出した。正確には一方的に話を聞いてもらっていただけだけど。腕の中で、彼女の体毛が風に揺れているのを感じていた。彼女は意外に聞き上手な性格だった。

ただひたすらに空腹を感じていた。なにか食べなきゃ。
空腹を感じた瞬間に、どうしようもないほどに涙がこぼれてきた。
それは彼女の名前だったから。なにか食うしかないんだ。
29歳になろうという大人が泣きながら夜道を歩く姿は、かなり怪しいものだったろう。

でも、僕は彼女のことをとても愛していたんだ。

信号機もテールランプも、街路樹も花も曇り空も、すべてが境界線を失くして混じった。
色が、失われるわけではないのだ。


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