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もう、触れない

ドトールで飲むコーヒーの値段は高くて、私は苦虫を噛んだ。そもそもブレンドコーヒーが何をブレンドしているのかも分からないし、アメリカンコーヒーのどこに米国を感じるのかも分からない。違いの分からない、器量の小さい男にとって、エスプレッソのカップは小さい。それでも飲まなければならないのは、どうしてなんだろう?


カップの内側に,、地層みたいに線が重なっている。この線は30分前に飲み始めた頃の線。その線はまださっきできたばかり。私は老練な地質学者のように、その積み重なった時間のことを想った。


ミラノサンドを包んでいた茶色い紙が、何かの生命の抜け殻のようにトレイに載っている。
それは私に、小さい頃玄関で飼っていた虫かごの中のカブトムシを思い出させる。
夏の終わり、虫かごにダニがたかっていた。ダニはカブトムシの節や柔らかい腹部に巣くって、着々とその生命を侵食していく。動きが鈍っていった。
だから、歯ブラシでカブトムシを磨いたんだ。死の影を掃うみたいに。
カブトムシにとって人間の体温はいささか高すぎる。左手で胸の角をつまんでなるべく体温が伝熱していかないようにした。
それでも、こんな対策でいいのか悩んでる私の指先が、熱いんだろう? 堪えかねたカブトムシの足先はだんだんと何も掴むことが出来なくなっていった。その身体を木の枝の上においても、それを掴むことはない。
ただ、なにか大事なものを抱きかかえるみたいに、その6本の脚は虚空を掴んでいた。
庭に穴を掘り、虫かごの中に敷き詰めていた腐葉土と一緒にカブトムシを埋めた。
アイスの棒きれを土に挿し、それを墓標として。
名前は、ない。

大人になるにつれて、虫を触れなくなるのはどうしてなんだろう? 草陰に潜むバッタも、花に擬態する蝶も、枝の長さを一歩ずつ測定するみたいに這う芋虫も。夜の街灯に群がる蛾にも、そのふもとで戯れるコガネムシにも。
幼い子は触れることで、その認知能力を伸ばしていく。世界を知って大人になるために、手を伸ばしていく。
そして、触れた時間の程度こそあれ、それが一つの完結した命だということを、触れた指先が認識すると、もう、さわれなくなる。のかもしれない。自分の両手の中に命を預かるという責任に耐えがたくなる。とかく、生死のサイクルが短い虫となると、その両手に包まれているのは生であり、死である。終わりゆく生であり、始まりゆく死である。それは孤独に似ている。
どこまでも短く完結したその孤独に安易に触れることに、恐れを抱いてしまうのだろう。それが、虫を触れなくなる一つの理由だ。
その完結した孤独を抱える責任をしゃんと持つことを、あるいは大人になると呼ぶこともできるのかもしれない。


グスタフ・マーラーの亡き子をしのぶ歌がイヤフォンから流れてきた。この前、プロのオーケストラを聴いた後、復習がてら何度かSpotifyで再生したのだ。何度も再生することでレコメンドに挙がり、シャッフル再生で流れてきたのだろう。
あのサントリーホールのステージのバリトン歌手は、とても明瞭なドイツ語で歌っていた。一語一語の意味は理解できないが、その文脈はなぜだか読み取れる不思議な歌い方だった。
それは私の胸のうちに、深い宿命的な翳りを残した。やがてその翳りは胸の中心部へ向かってするりと染み込んでいった。排水溝を回転しながら流れていく水のように。


一報。
実家の愛くるしい、私の犬の左目が失明したと。
彼女は少しすれば15才になる。立派な老犬だ。そういうものだと飼い始めるときに両親に忠告されていたから、分かっていたつもりではあった。彼女の身体は、一部ずつ、死にとって代わっていってしまう。そのどうしようもない事実を知らされた。

生から死へのグラデーション的な坂道の途中で、彼女はそれでも元気ではある。
皿に盛られたドッグフードは残さずガツガツ食べるし、テレビを見ている家族の膝までやってきて、その上に顎をのせて寝息を立てるし、気に食わないことがあればワンワン吠えたりもするけれど。


私は、いま彼女の傍にはいない。
私は、両腕に残る彼女のぬくもりを愛おしくおもった。何か大事なものを抱きしめるみたいに僕は腕を組んだ。この両腕が抱きしめているのは紛れもない“生“だ。

私は泣いた。
ウイルスが蔓延しているかもしれない揺れる電車の中、マスクの下で歯を食いしばりながら、泣いた。涙が止めどなかったが、眼鏡が曇ったことで周りからは気づかれなかっただろう。
そうであってほしい。

もうすこし子どもでいさせてくれ。

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