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雨上がりの夜鳴き声に

雨上がりの夜に、2匹の猫の話し声を聞いた。
もちろん何を話しているのかは私にはわからない。アイスコーヒーゼリーみたいな雨上がりの空気をまっすぐ突き破って、にゃあにゃあ、みゃあみゃあなどと盛り上がっている。猫の言葉はわからない。でも彼らはきっと難しい話をしている。また俺たちの餌場が一つなくなったんだ、とか三毛猫さんちの赤ちゃんが人間に奪われたみたいだとか、きっとそんな話なんだろう。
夜23時。仕事から帰ってきて、私はあまりにも疲れていた。片方ずつ靴下を脱ぎ散らして、ベッドに倒れ込む。

やらなければならないことはもちろんあった。
シンクに汚れ物が溜まっている。明日の朝、どうせバタバタするだろうから片付けることなんてできない。今しなければならないはずだ。洗濯物も溜まっているし、このタイミングでバスタオルを洗っておかないと明日ストックがなくなる。部屋のホコリも拭き取っておきたいところもいくつかあった。
それにシャワーを浴びなければならない。ベッドのまどろみの中で私は、脱皮をするトカゲのように服を1枚ずつはぎ取っていた。それはあるいは痛みに悶える病人にも見えたかもしれない。

やりたいこともあった。
オリジナルの物語を書くということだ。机の上の万年筆を見る。
万年筆のインクはきっと乾いてしまっているだろう。私はこれでも物書きとしての、少なくとも周りからそう評された自分の側面をそれなりに誇りに感じていた。でも、他人にそういう横顔ばかり見せるばかりで、現実から真正面に向き合おうとはしなかった。何も書けない、という現実だ。

万年筆のカートリッジ分ほどもない才能はやがては涸れてしまう。何かを書きたいという情熱も今や空前の灯火だった。猫の声だけが聞こえる、この静かにさざめきだった夜の中では導きの灯台の光にもならない。「他人に語るほどでもない、だけどわかってほしい辛さ」があの頃のおれにはあったんだよ、と物語というフィルターを通して伝えたかった。だけど———ダメだった。評価されたいという高慢さが裏返しとなって筆を走らせることができなかった。書いて、出来の悪いものだったら、一体どうする? 書かない方がいいだろう。

瞼が落ちて、ベッドの下へと意識が吸い込まれていく瞬間、「セロ弾きのゴーシュ」を思い出した。下手なセロ弾きのもとに毎晩動物たちが訪ねてきて、何かと理由をつけて演奏を求める、あの話だ。
もし、雨上がりの夜空の下で議論している猫たちに私の話を聞いてもらったらどうだろう? 最初は言葉がわからなくても、ドリトル先生のように彼らの言葉を文字通り身に付けるまで、私は自分のことをそれが自分だということを隠して必死に語ることだろう。

私は、毎晩の動物たちの訪問を歓迎する。雨宿りの屋根を提供するし、何か食べ物だって与えるし、話だって聞く覚悟もある。真夜中の語り部として、私は自分自身を信用してあげたかった。

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