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2020/5/14の日記~在宅GW、均一なテクスチャー、這いつくばってFLY~

在宅ワークと外出自粛のゴールデンウィークを過ごしている間に、季節は移ろいでしまった。久しぶりの出社ゆえ、外の陽気に当てられるまでその変化にも気づけていないでいたから、ちょっと驚いてしまった。だから、カチッと線路が切り替わるみたいに、日常のあるポイントで季節はその名前を変えたのだなという印象が強かった。春は劇的に終わりを告げ、初夏を迎えたのだ。記憶のなかに、その切り替えポイントとして思い当たる節を探してみれば、それはちょうど2週間くらい前の雷のひどい夜だったのだろうと感じる。
あれはひどく雷の鳴る夜だった。

「ねぇ、今カミナリめっちゃ鳴ってる!」
そう興奮気味にしゃべる画面の向こうの友人たちの部屋から僕のイヤホンへとカミナリの音が聞こえた。直後、自分の部屋にもそのカミナリの音が直接響き伝わってきた。ゴロゴロと。
このタイムラグを数えて、自分たちがどれほど離れているのか音速を用いて計算してみようとも思った。
ただ、アルコールが回って頭はグルグルときりもみ降下を始めていたから、タイムラグを数えることなんてできず、正確に自分たちの間の距離を掴むことは結局かなわなかった。
まるで死亡フラグをビンビンに立たせまくるアニメキャラクターのように「コロナが収まったらアレしよう、コレしようね」などと約束を交わすだけに終わってしまった。

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30度近い気温から逃れるために、地下の喫茶店に潜り込みアイスコーヒーを飲む。
店内は閑散としていて壁際の席に中年の男が一人座っているだけだった。ベロア生地のジャケット、ブルーのシャツに、色褪せたジーンズを着て、しまむらで売っていそうな安物の革靴を履いている。テーブルの下で脚を組み、机上の空のグラスとその傍らに置かれた手帳を落ち窪んだ目で虚ろに見つめる姿は、ひどく自信を無くした猛禽類を連想させた。

コロナ騒動以前ならば、この時間のその席には女がいつも座っていた。その女もまたテーブルの下で窮屈そうに脚を組んでいた(それは黒いタイツで均一なテクスチャー然として包まれた魅力的な脚だった)。彼女は不満げな顔でスマホを弄り、—その不満がツラツラと溜まったようなら—、10分に1回くらいに席を立った。そして荷物はそのままに喫煙室に赴き、同じようにテーブルの下で脚を組み、同じように不満げな顔でスマホを弄るのだった。
今その席に座っていない彼女が、在宅ワークの恩恵を存分に預かって、家で優雅に脚を組んで、海外ドラマなんかが流れるテレビを横目に仕事できていたらいいのにと心から願うばかりである。

それにしても、今その席に座る男は不思議な空気を持っていた。空のグラスをぼんやりと見つめるその姿は不思議と、世捨て人にも、夢想家にも見えた。

僕はそうあんまり他人をジロジロと見るのは失礼だと思いながらも、手元にある伊坂幸太郎の本が紡ぐエンターテイメントの世界と、壁の時計と、床と、そして男を交互に視界に捉えていた。ぐるぐると。
その何度目のサイクルを繰り返していると、ふと這いつくばるハエの姿を床に捉えた。ハエは飛び立つポイントを決めかねて、あちこちを移動しているのだろうか。それとも、もう既に死んでいるというのに冷房の風に当てられ、スルスルとあっちこっちに床を移動させられているのだろうか。どちらにせよ、その虫は飛べずに哀れなままである。

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僕が虫を嫌いなのは、その一生のサイクルがあまりに短いがために、いとも簡単に死を連想させてしまうからというのは少し前に話したと思う。それとはまた別に、羽根を持っていて飛べない虫(まさに目の前のハエだ)というのは、虫を嫌いになることを益々加速させる。


例えば、鳥がその進化の過程で翼を得た時、彼らは華奢な脚で助走をつけてその翼をばたつかせたことだろう。彼らは七転八起、何度も何度も挑戦をしてようやく風を掴み、空をまるで自由然として泳ぐことを可能にしたはずだ。彼らは才能を努力で伸ばしていったと言える。彼らは最初から飛ぶことが出来たわけではない。

一方で、虫はどうだ。羽化し、皺くちゃの羽根が伸び切ったならば、すぐに飛び立ちやがる。虫は飛ぶ努力なんてしないのだ。飛べなかった頃のこと、木の枝にしがみついて身を隠し生きていたこと、身動きすら取れず自分の殻に閉じこもっていたサナギの頃のこと、そんなことがあったことなどまるでなかったかのように飛び立つ。パタパタと。せわしなく。

そしてタチが悪いことなのだが、僕は自分をよくこういう虫けらに重ねてしまうのだ。
時間が経てば、いつか羽化し、眠っていた皺くちゃの才能がいつの間にか伸び、辛かったこと哀しかったこと、塞ぎこんで身動きすらとれなかったこと、でもそんなことが嘘だったかのように世の中に飛び立てる。そう信じて疑っていなかった。
だからこそ、今目の前の床で這いつくばるハエを見ていると哀れみと軽蔑の両方を感じないわけにはいかなかった。


僕は自分が虫けらではないと思いたいのならば、努力すべきなのだ。冷房の寒気に手をこする姿に、床で這いつくばって前脚をこするハエを重ね合わしてしまうその前に、腕を広げ、もがく様に手をバタつかせて飛び立つ努力をしないといけなかったのだ。重力に抗えず這いつくばったその姿が、どのように無様に見えたとしても。
飛ぶための努力をすることが出来るのならば、コロナが収束すれば、友人の元へ文字通り飛んで行ける。アルコールのせいでイマイチ掴み切れなかった僕らの距離を、糸を手繰り寄せるみたいに近づけていくのだ。今一度ゼロ距離で心の底から笑い合うことができるはずだ。

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男は、思いついたように手帳に何かを記し、急に立ち上がったかと思うと向かいの席に置いていたA4のケント紙を手に取った。そして覚悟を決めた顔で店を出ていった。もしかしたら彼は漫画家なのかもしれない。画家かもしれない。設計士かもしれない。なんであろうと、その疲れ果てた猛禽類のような男は、再び歩き出していった。

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