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学部長の教科書⑦ リーダーシップ編 第3ステップ 学部の教育ビジョンとミッションを再定義するその1

前回の記事で、学部の「募集問題、退学者問題、成績不振者問題、就職問題などの個別問題は、そもそも学部の方向性が曖昧で、競合校との違いが打ち出せず、教育が組織的に動いていないことが根本にある」と述べました。この点について考えるのが、第3ステップです。

前任校の学部が抱えていた課題

私は前任校の法学部長だった時に、法学部の「差別化」をどう考えてよいか悩みました。法学部では「法律を学ぶ」とか「法律を使う仕事につく」というイメージがあまりに強く、他大学と異なった「特色」を打ち出すことに難しさを感じていました。ある人から「九国大法学部のカリキュラムと九州大学法学部のカリキュラムの違いがわからない」と言われたこともありますが、教員たちは、「他の法学部と違ってしまえば法学部ではなくなる」と思っていたようです。

このように、法学部というアイデンティティを強くもてば持つほど、他大学や競合校との法学部の違いを打ち出すことは難しくなります。すると、養成する人材像やカリキュラムを差別化しようとするのではなく、「面倒見の良さ」とか「教員との距離の近さ」といった情緒的な面が強調されるようになります。その結果、「教員が学生との面談回数を増やす」ことが学部の魅力向上につながると考えるようになり、面談回数を記録するシステムが整備されるといったことが起きるのです。

当時の学部では、定員割れ問題、退学問題、成績不振者問題、そして就職問題など、問題が山積みでした。そして、目の前にいる学生のニーズと、教員たちが想定している「法学教育」のギャップは大きく、何のために法律学を学ぶのかを納得していた学生は、さほど多くなかったように思います(それをちゃんと学生に語ってもらうこともありませんでした)。もちろん、法学を一生懸命学ぶ真面目な学生もたくさんいましたが、法律学を真面目に学べば学ぶほど、卒業後にそのまま資格取得を目指して勉強を続けるとか、公務員専門学校に通うことを選ぶといった未就職者につながるリスクがその先にあるようにも思えました。

私は、法学部の中に、もっと社会的ニーズと合致した教育を盛り込みたいと思っていましたが、その方法がよく分かりませんでした。自分であれこれ走り回っても、自分や改革チームが疲弊するだけのように感じていたのです。

『ストーリーとしての競争戦略』に出会う

そんな時に、たまたま手に取ったのが、当時ビジネス書としても話題になっていた楠木建先生の『ストーリーとしての競争戦略』でした(楠木, 2010)。この本では、戦略ストーリーの始まりは、「本質的な顧客価値の定義」であり、それは、「『本当のところ、誰に何を売っているのか」という問いに答えること」だと述べてありました(238頁)。

例えばリコーという複写機の企業が当時大きく業績回復したのは、「画像処理のデジタル化」という独自のコンセプトを定義したことだといいます。他方、富士ゼロックスは、「文書の処理」を掲げており、そのため、ゼロックスはデジタル化でリコーの後塵を拝することになったと解説されています。つまり、差別化戦略の根本には、他社と異なる顧客価値とコンセプトをいかに定義できるかということだというのです。

楠木先生は次のようにも言っています。

人間の本性を捉えた骨太のコンセプトを作るためには、その製品やサービスを本当に必要とするのは誰か、どのように利用し、なぜ喜び、なぜ満足を感じるのか、こうした顧客価値の細部についてのリアリティを突き詰めることが何よりも大切です。(中略)特に大切なのは「なぜ」についてのリアリティです。

(前掲、291頁)

また、成功した戦略ストーリーには「一見して非合理に見える」点が含まれていることもポイントだと指摘しています。例えば、スターバックスは「第三の場所(サードプレイス)」をコンセプトに掲げていますが、そのためには「ゆっくりとリラックスできる雰囲気の店舗」が求められます。それを成り立たせる条件が、「フードに力を入れない」ことと、フランチャイズではなく、コストのかかる「直営方式にこだわる」ことだと指摘しています。フードを重視すると、「第三の場所というメンタルな価値よりも短時間での食事という機能的な価値が全面にでてしまい」ます(306頁)。また、直営方式は「一見して非合理な選択」ですが、だからこそサードプレイスの価値を守れるのであり、また同業他社が真似しようとしないため、スターバックスの競争優位が続くのだと述べられています。

「本当のところ」を腹をくくって引き受ける

この指摘は、当時の私にとって目を見開く思いをさせられました。「本当のところ」を考え、他大学からみて「一見して非合理に見える」ことにフォーカスすることが、解決策ではないかということに気づかされたのです。

当時の我々教員たちは、法学部としてのプライドから、ついつい「理想の学生像」に当てはまる学生に来てもらうことを期待して、「現実の目の前にいる学生」に不満を抱きがちです。「もっと法律学を熱心に学びたいと思う学生に来てほしいのに」とか、「もっと多くの学生がロースクールに進学したり、法学関連の資格を取得してほしいのに」と思いがちです。しかし、「目の前にいる学生」は、法律学の知識が武器にならないような民間企業や警察官や消防士といった職業に就いていきます。法律学の教員としては、理想と現実のあまりのギャップにジレンマを感じる瞬間です。

ただし、よく考えてみると、日本の法学部中の法学部である東大法学部は、そもそも「国家の須要」を満たすために、「国家官僚」というジェネラリストを意図的に育成してきたわけです(天野郁夫(2009)『大学の誕生』中公新書参照)。九国大法学部も、次元は異なりますが、法学部として警察官、消防士、自治体職員等を育成する「リスクマネジメントコース」を立ち上げ、公務員講座に頼らない公務員養成教育を開始していました。絶え間ない部署異動を通じて様々な仕事を経験し、経験を通じて、つぶしの効く「ジェネラリスト」へと成長していく「メンバーシップ型」の職業をゴールの一つとして設定していたのです(参考:濱口桂一郎, 2009等 )。

法学の専門教育を通してジェネリックスキルを育成し、つぶしの効くジェネラリストを育てる」。一見すると奇妙な法学部と社会との接続は、実は日本の法学部における伝統的な育成方法だと気づいたことから、こうした接続を明確化し、「目の前の学生」に共感してもらえるようなDPとカリキュラムをつくることこそ、法学部の生き残る道だと考えました。

また、目の前の学生は、たしかに偏差値も高くなく、目的意識も薄い学生が多いという現実はあります。しかし、大学で目覚め、様々な能力を大いに伸ばし、卒業後に社会に出て活躍する学生も大勢います。そういう学生を教育の主たるターゲットとしてとらえ、「腹をくくって引き受ける」ことは、他大学があまり明確に打ち出していない以上、差別化戦略になりえると考えました。また、これは、日本の高等教育の中でも価値ある取組だと考えました(あとから、同じような発想をしている大学がいくつかあることを知りました。共愛学園前橋国際大学の当時の学部長だった大森昭生先生は、当時はっきりとそういう姿勢を打ち出していて、大変感銘を受けたことを覚えています)。

「本当のところ、我々は誰に、何を、いかに提供すべきか」

こうして、ワーキンググループでの議論などを経て、九国大法学部のコンセプトが急速にまとまっていきました。そのフレームとなったのは、楠木先生の本の中で示されていた、「本当のところ、我々は誰に、何を、いかに提供すべきか」という言葉だったのです。

実は、この一言は、高等教育の文脈では、「3つのポリシー」、すなわち、アドミッションポリシー、ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシーのことを指すと言えます。これは当時、コンセプトをまとめていく中で気付かされたことです。意図せずして、「3ポリを一体的に考える」ことを行っていたと言えるかもしれません。

こうして作り上げたコンセプトは、完成までに、教授会でも2回ほど議論を行ったと記憶しています。このようなプロセスを経て完成した「九国大法学部のコンセプト」を当時の教授会資料のまま紹介しましょう。これはあちこちで紹介してきたので、すでにご覧になった方もいるかもしれません。

2012年5月16日教授会資料「九国大法学部のコンセプト」

九国大法学部のコンセプト(ビジョン)

このコンセプトについて、少し解説しましょう。

「誰に(who)」とは、目の前の大多数の学生、つまり「勉強が嫌いまたは苦手で、将来の目標が曖昧な学生」としました。もちろん、学力も目的意識も高い学生もいました。しかし、そういう一部の学生よりも、「その他大勢」の学生に光を当て、上位層だけでなく、マジョリティの学生をきちんと伸ばす仕組みづくりに注力することこそ、高校の先生からの期待にこたえられることだと考えました。

また、「何を(what)」とは、「社会で自立して生きるための支えとなる『確かな学力と生きる力』を修得させる教育」と位置づけました。「確かな学力」というのは、初等中等教育でよく使われる言葉ですが、高校の先生に対するわかりやすさを優先しました。また、法学教育を通じて引き上げるのは、もちろん専門的な「学力」です。さらに、専門知識だけでなく、汎用的技能育成を意識しています。知識活用力である「リテラシー」、他者と協力しながら課題を解決できる「コンピテンシー」を学力と並んで育成すると位置づけました。

次は、「いかにして(how)」です。ここでは、「知識思考の方法・幅広い興味関心を全員が段階的に修得できるカリキュラム」と位置づけました。それ以外の取組は書いていません。カリキュラム中心でいこうという姿勢が現れています。ここから、体系的な法学教育とジェネリックスキルを育成するカリキュラム改革の構想につながっていきます。

前述の楠木先生は、「何よりも大切な問いは『なぜ』です」と述べ、「ストーリーに対する論理的な確信を得るためには、構成要素のつながりの背後にある『なぜ』を突き詰めていくしかありません」と指摘しています(424頁)。私は、「偏差値の壁を乗り越える教育成果を生み出す方法を組織的に作り上げ、日本の高等教育が抱える課題を本学なりに解決する方法を示すことが、本学の存在価値であると同時に生き残る道である」とまとめました。

またこれらを明確にするために、「やらないこと」と「やること」を明確化しました。これも楠木先生の本の中で「誰に嫌われるか」をはっきりさせることがコンセプトの構想にとって大切だと書かれていたことを参考にしました。実は、この部分はもっとも教授会でもめました。しかし、「現実をふまえた現実的な戦略を取るしかない」と教授会を説得した記憶があります。

■やらないこと(≒多くの他大学がやっていること)
× 学生の自主性に依存したフルスペック型法学教育のカリキュラム
× 一部のトップ層のみを対象として、できない学生を見捨てる教育
× 資格取得や公務員育成をエクステンションセンターのみに依存する教育

■やること(組織的FDとして取り組む課題)
◯ 学生生活を充実させ、一人ひとりを丁寧にフォローすることで落ちこぼれを生み出さない仕組み
◯ 科目のねらいや達成目標が明確で、学生の成長を丁寧に確認しながら進行する授業の設計
◯ 科目間に関連性があり、学生の興味関心が深まるよう工夫された体系的カリキュラムの整備
◯ すべての科目の学習経験を通じて、就業力や社会で自立できる力へとつながるキャリア教育

コンセプト・ビジョンは1頁でまとめる

こうして、「本当のところ、我々は誰に、何を、いかに提供するか。またそれはなぜか」というコンセプト、すなわち、学部が進む「ビジョン」を作り上げることができました。もちろんこれは一人で作り上げたものではありません。プロジェクトチームのメンバーと議論しながら、作っていったものです。 

ところで、このコンセプトは、A41枚に収まっているところがポイントです。コッター先生の『リーダーシップ論』にも、「5分以内でビジョンを他の人に説明できない、あるいは相手から理解と関心を示す反応が得られないのであれば、変革プロセスの第3段階を完了したとは言えない」と書かれています(88頁)

ちなみに、コッター教授は、「ビジョンも戦略も、人々をあっと言うせるような斬新なものである必要はない」とも指摘しています(49頁)。学部の戦略を考える上で、ちょっと安心する言葉です。ただし重要な点は次の内容です。少し長くなりますが、引用しておきましょう。

ビジョンを描く上で重要なのは、独自性ではなく、顧客や株主、社員など、重要なステークホルダーの利益にどれくらい資するのか、そしてそこから地に足のついた競争戦略をどれくらいスムーズに導き出されるかの二点である。

ビジョンがおかしいと、たとえば、顧客や株主よりも社員を優遇するなど、重要なステークホルダーの正当なニーズや権利を無視してしまう。あるいは、戦略的に怪しいビジョンもある。業界の万年弱小企業が、いきなり「業界ナンバーワン」を目指すと言い出したところで、それは単なる絵空事であって、ビジョンではない。

コッター『前掲』50頁


さて、前任校の話だけでこんなに長くなってしまいました。続きは回を改めます。

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