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学部長の教科書⑯ リーダーシップ編 補論その1 学部長のリーダーシップとはなにか

「学部長の教科書〜リーダーシップ編」として、やはり「リーダーシップ」そのものについて扱わなければいけないでしょう。学部長にはどのような「リーダーシップ」が求められるのでしょうか? リーダーシップ編の補論として少しまとめてみましょう。

リーダーシップは大学教員にとって難しい問題です。大学教員、特に人文社会系の教員はしばしば「個人商店」的な要素が強いと言われます。学部長になる前に、学部内で他の教員に対してリーダーシップを発揮したという経験がない人も多いでしょう。

また、教員間の関係も、民間企業のような上司と部下という関係とはかなり異なります。学部長と教員の間であっても、「同僚制」の原則が強く意識されます。学部長とはいえ、学部教員の授業内容に口を出すことは難しいでしょう。教員同士はお互いを尊重しながらも、それぞれの専門性にもとづき、研究や教育に関してある種の相互不干渉の関係にあるとみなす人がいまだに多いのが現実です。

しかし、これまでリーダーシップ編で述べてきたように、学部長は学部教員を巻き込みながら教育改革を先導する立場にあります。同時に、学部長になった途端、学部長という立場から学部教員に様々なお願いをする(=仕事をふる)立場にもなります。つまり、学部長になった途端に、学部変革のためのリーダーシップが求められるようになったり、学部教員に対してマネジャーとして振る舞う必要が出てきたりするのです。

学部長として振る舞うことの難しさ

私も前任校2008年に30代後半で学部長になったとき、最も困難を感じたのがこの点です。学部教員のほとんどは私より年長者で、最初のうちは、年配の先生方に仕事を依頼をすることにかなり引け目を感じていました。ついつい自分がやってしまったほうが早いと思ったり、むしろ先生方から頼まれることをなんとかしようとして奔走したりといった状況が生まれていました。

ある時、学外の宿泊施設でオフキャンパス型FD研修を実施したときでした。その大学の歴史の中で、学部単位でオフキャンパスFD研修などを行ったことはこれまで一度もありませんでした。その分、僕は参加してもらった教員に対して必要以上に気を使っていたのかもしれません。ついつい、教員たちのお世話係などのようなことばかりやっていました。すると、ある先生から、「学部長がホテルの部屋の鍵持って走り回っててどうするんですか」と叱責されたのです。「学部長としてやるべきことを避けてるだけじゃないですか」と。

学部長としてやるべきことは先生方のお世話とかご機嫌取りではありません。そんなことをしても、参加する先生方に宿泊FD研修という大きな負担を強いていることは相殺されないのです。むしろ、なぜこんな研修が必要なのか、学部をどこに向かわせようとしているのかという旗印を堂々と示すことが大切だったのです。このオフキャンパスFD研修は、「実はこの研修は、自分自身にとってのFDだったのか」と肝に銘じることになりました。

この出来事をきっかけとして、学部長にとって最も大切なリーダーシップとは、例え教員たちに負担を強いるようなことがあろうとも、学部として向かう方向性やその意味をきちんと説明することだと気付かされました。この時以来、学部教員を巻き込んで学部改革を進めるうえでは、学部長が学部のビジョンやミッションを提示することが最も大事だと確信するようになったのです(もちろんそれは学長ビジョンのもとで、という条件付きですが)。

強い学部長は必ずしも機能しない

学部長が学部教員に対して、地位や権限に基づく「上から」の命令を下しても、教員は動きません。しばしば「学部が動かなくて」という声を聞きます。全学が向かおうとする方向性が学部になかなか届かないとか、さらには学部長がいくら言っても学部が抵抗する、というわけです。

では、学部長が強権発動すればいいではないか、いくら教員が抵抗しても、学部長が強く言えばいいではないか、それができない学部長は弱いだめな学部長だ、と考える人もいるでしょう。しかし、それではうまくいかないのです。私もこれまで強権発動することで何かを成し遂げようとしてきた学部長を何人か見聞きしてきましたが、総じてあまり成果を出せたとは言い難いようです。学部教員たちはそういう学部長を黙ってみていますが、強権発動をするような学部長に積極的に協力しようという人は出てこなくなるのです。

実際のところ、学部長はせいぜい2年〜4年任期の役職であり、任期が終われば、他の教員と「同僚」に戻ります。数年間やり過ごせば、その人は学部長ではなくなるのです。また、法律上は、学部長には学部教員に対して業務命令を発動する権限が今ではあります。しかし、教育改革とは業務命令ですんなり進むようなものではありません。個々の先生が教室の中で行う授業に対して、強制力をもって影響を及ぼすことは難しいのです。

例えば、極端な話ですが、学生の授業評価アンケートをもとに、学部長が賞与の査定を行うといったことを導入したらどうなるでしょうか。実際にそういうことが導入されている大学があることは知っていますが、やり方を間違えれば、あるいは信頼されていない学部長のもとでは、たちまち成績評価のインフレが起こる可能性があります。学部長に面従腹背の教員が増える一方で、学生に負荷をかけて学生を育てようとする授業はほとんどなくなります。結果的に学部の教育力は低下していくでしょう。意図とは逆のことが容易に起きうるのです。

学部の教育改革とは、学部長一人がプランを立案し、強制力でもって他の教員にそれを実行してもらう、という図式では成り立たちません。学部長がすべての授業を見回ったりすることはもちろんできません。仮にそうしたとしても、学部長が授業を短時間見回ったりくらいでは授業改善は進まないのです。教育改革には、教職員やステイクホルダーが立場を超えて協力することが不可欠です。授業レベルの改革は、教員たちが当事者意識を持って進めるしかないと私は考えています。

学部レベルの改革も同様です。カリキュラム改革にしても、学部長が一人でカリキュラム原案を作るわけにはいきません。後に述べる予定ですが、カリキュラムとは、「教職員等の教育方針のコンセンサスが形になって現れたもの」だと私は考えています。教員たちが「自分たちのカリキュラム」という意識を持っていなければ、教員たちの「自分の授業は自分のもの」という担当科目主義を乗り越えることはできません。学部長が教育方針を「上から」無理やり押し付けても、教員の当事者意識は高まらず、むしろ、学部に対する教員の無関心・無責任主義を助長するだけです。学部改革のためには、学部改革に賛同する教員を少しずつ増やしていく中で、改革のためにやるべきことを自分たちが考え、教員同士で協力しながら行っていく雰囲気や仕組みを作っていくべきなのです。

学部長が目指すべきリーダーシップとは

そんな難しい仕事を成し遂げるためのリーダーシップとはどのようなものでしょうか? 

学部長のリーダーシップという観点で参考になるのは、リーダー個人、つまり、「グループの特定の一人がリーダーとして成果を出せる要因」に着目するのではなく、「グループの複数の人間、時には全員がリーダーシップを取る」という「シェアード・リーダーシップ」の考え方だと思います(入山章栄(2019)『世界標準の経営理論』)。

そもそも、リーダーシップという概念は多義的です。入山章栄先生の『世界標準の経営理論』をみると、リーダーシップ理論の根底には、「心理的に『他者に変化をもたらす』」という共通点が存在するようです。そのうえで、様々なリーダーシップ理論が展開されてきました。例えば、1940年代に盛んだったリーダーの個性(trait)に注目する理論、1960年代に興隆したリーダーの行動(behavior)に注目する理論、その他にも、リーダーシップが成立する状況や条件に注目する理論(コンティンジェンシー理論)や、上司と部下のお互いに対する期待の変化に注目する理論(Leader-Member-Exchange: LMX)などがあります。現在では、部下との心理的な取引や交換関係に着目する「トランザクショナル・リーダーシップ」、ビジョンや啓蒙を重視する「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」といった理論が注目されているようです。リーダーシップ編で述べた学部長のリーダーシップ像は、「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」に近いといえるかもしれません。ただし、これの理論はいずれもリーダー個人、つまり、「グループの特定の一人がリーダーとして成果を出せる要因」に着目しています。

一方最近では、「シェアード・リーダーシップ」という考え方が広がっています。これは、「グループの複数の人間、時には全員がリーダーシップを取る」という考え方です。つまり、リーダーの立場にある人が常に先頭に立ってリーダーシップを発揮する必要は必ずしもないというのです。入山氏の著書でも、フォロワーの要求に答え、フォロワーの成長を促すという他者貢献の視点にもとづく「サーヴァント・リーダーシップ」、謙虚であるリーダーのほうがチーム貢献度が高まるという「ハンブルリーダーシップ」、自己認識を高め、自分をコントロール(成長)させられるリーダーに注目する「オーセンティック・リーダーシップ」などが紹介されています。

「シェアード・リーダーシップ」という考え方は、弱い権限しか持たない学部長が、学部改革のような複雑なタスクを進める場合、参考になります。複雑なタスクに取組む場合には、グループの人間関係がフラットであり、一人ひとりが当事者意識を持っていたほうがうまくいくことは直感的に理解できます。前掲の入山氏の書籍でも、シェアードリーダーシップのほうがチームの成果が出せるという結果が紹介されています。

我が国でも、長らく立教大学でリーダーシップ教育を率いてきた日向野幹也先生(現早稲田大学教授)は、「権限なきリーダーシップ」を提唱しています(日向野幹也(2018)『高校生からのリーダーシップ入門』ちくまプリマー新書等)。リーダーは常にリーダーシップを発揮し続ける必要はなく、場面場面で適所適材な人に仕事を任せ、時には自分もフォロワーになりながら、時にはみんなでリーダーシップを発揮すればよいというのです。

日向野先生は、リーダーシップの最小3要素として、「目標設定・共有」「率先垂範」「相互支援」を掲げています。つまり、組織やグループがどこに向かうかという目標を設定し、それをメンバー全員で共有すること、その目標達成に向けてまずは自分が行動して周囲に影響を与えること、(お互いに)他のメンバーたちが動きやすくなるよう支援すること、という3つがリーダーシップの最小要素だというのです。そして、こうしたリーダーシップを、リーダーの地位にある人だけでなく、権限を持たない多くのメンバーが発揮するようになれば、フラットな組織の中で、各自がリーダーシップを発揮するようになり、組織が成果を出せるようになるというわけです。

「権限なき」学部長が発揮するリーダーシップ

10年以上前の話になりますが、私が前任校で法学部長をしていたとき、最初の頃はついつい自分で何もかも手掛けようとしていました。しかしそれだと自分がパンクします。しかも学部全体の改革もそれほど前に進みません。

そこから「人に頼る」こと、「人に任せる」こと、「みんなが行動しやすくなる環境を作る」ことの重要性に気付かされました。いや、自分でそういうモードに変われたわけではありません。周囲の人たちが見るに見かねて動いてくれたという方が正しいかもしれません。多くの先生方が「率先垂範」や「相互支援」というリーダーシップを発揮してくれるようになったのです。

文章表現科目を新しく始めた際には、最初の1年目は私がほとんどの授業内容を提案し、他のメンバーはそれをもとに授業を進めました。結果として、私は1年間その授業に大幅に時間を費やすことになっただけでなく、内容もそれほど満足度の高いものにはなりませんでした。「この方針にはついていけない」と言って、授業担当から離脱する教員も現れたくらいです。

2年目は、それ以前からお世話になっていた外部の方々によるアドバイスもあり、4人の授業担当者がそれぞれ3週間(3コマ)ごとに、「読んで、考えて、書く」というプロセスにのっとった教材を分担して作成することになりました。まさに、「相互支援」をお願いしたのです。

具体的には、3コマで完結する教材を4人がそれぞれ作り、それを順番に並べて各クラスで使うという方法です。もちろんイチから教材を作るのはとても大変な作業でした。毎週のように大学の裏にあったファミリーレストランに集まり、コーヒーとスイーツを食べながら教材について話し合いを続けたことを覚えています。とても大きな負担でしたが、実際に他のメンバーが作った教材を授業で使ってみて、手応えを感じるようになりました。また、自分の教材を他の先生方に使ってもらい、「あの教材のここがよかった」とか「あそこを変えればもっと良くなる」といったようなフィードバックをもらうと、論文を褒められた気持ちに似た感情が生じることもわかりました。僕だけでなく、おそらく他の担当の先生方も、大変だけどやりがいを感じていたのではないかと思います。

こうして教員協働による文章表現科目のプログラムが完成しました。翌年度は教材の手直しですむので負担は急激に減りました。担当者全員が楽になったのです。この顛末については本に書いたこともあるので、興味のある方はご参考になさってください(成田・大島・中村編(2015)『大学生の日本語リテラシーをいかに高めるか』ひつじ書房)。ポイントは、授業担当者それぞれに教材作成を分担して「任せ」、協働で授業設計を行うことでした。

前任校でカリキュラム改革を進めた際も、大筋の方向性について決めた後は、担当の教員に完全に任せました。すると、僕では絶対にできないだろうと思うような素晴らしい内容のカリキュラム原案が出てきたのです。担当の先生は、学部長を「支援」してもらうという「リーダーシップ」を発揮してもらったことになります。

その後2016年に大学を移り、現在の大学で再び改革をイチから始めることになりました。ある意味では仕方がなかったのかもしれませんが、やはりここでも僕が一人であれこれやりすぎていたかもしれません。だからこそというべきか、学部長をやめた後、かなり密接に仕事をしてきた若手の同僚から、「実はあの頃、学部長がやっていたことの意図はほとんど理解できてなかったですよ。だって何も話してくれなかったんだから」と言われたことがあります。確かに、改革を始めた当初は、学部が向かう方向性については、改革メンバーと十分話し合ってきたつもりでした。しかし、改革が軌道に乗り始めた後になって、新しく採用された教員たちに同じように丁寧に話をしていたとは言い難い気がします。僕が話をすると教授会が長くなるといった遠慮もそこにはあったかもしれません。ともあれ、学部教員は少しずつ人が入れ替わっていきます。本当ならばその都度、「目標共有」にもっと時間を使うべきだったかもしれません。

ただし、これには後日談があります。そんな見解を僕に伝えた教員は、その後、初年次ゼミの主任になった際、教員やスチューデントアシスタント(SA)の協働体制を大きく前進させました。これはリーダーシップ編で紹介したことですが、授業後のふりかえりをすべてSAが行う仕組みを導入したのです。その様子を見た時、僕が手掛けていたときよりもSAの当事者意識が高まっていることに、つまりは僕が手掛けていた時以上の成果を出していることに感銘を受けました。僕がリーダーの立場を「手放す」ことで、若手教員がリーダーシップを大きく発揮するようになっていたのです。本当は、僕が学部長をやっている時にもっと現場に「任せる」ことをしたり、他の教員からもっと「支援」してもらうことをお願いすべきだったのかもしれません。

学部長自身はどうリーダーシップを開発するか

さて、これまでの内容をまとめましょう。しばしば「学部が動かない」という時に、「学部教員がちゃんと大学全体のことを意識して改革するように、学部長が手綱を引き締めるべきだ」という意見があります。これは、学部教員組織に垂直的な関係を当てはめ、学部長が「権限」にもとづく強制力を発動して、学部をコントロールすればよいという発想です。しかし、同僚性の高い学部教員が教育改革を進めるにあたって、このモデルではうまくいかないことのほうが多いと思います。

むしろ、学部長は、学部教員の協働体制をつくり、教員たちがフラットな関係の中で、特に若手教員が新しい取り組みを自由に始められるような環境作りに注力すべきです。そのためには、学部長はまず「目標設定・共有」「率先垂範」から始めるべきでしょう。ただし、一人で学部を引っ張っていくという考え方をずっと取る必要はありません。「相互支援」を意識し、現場の教員たちがそれぞれの役割のもとでリーダーシップを発揮できるよう、環境づくりを進めていけばよいのです。

「目標設定・共有」「率先垂範」「相互支援」は、より一般化してみると、対課題スキル、対自己スキル、対人スキルの一部であることに気付かされます。つまり、リーダーシップとは、「個人が自律的な姿勢で、多様な人と良い関係を築きながら協力しつつ、課題解決を取組む」経験を通じて伸ばしていく「コンピテンシー」の一種だとも言えるのです。その意味では、リーダーシップとは教科書などを読んで学ぶものではなく、ましてや先天的な「才能」や「性格」でもなく、実践を通じた経験から学んでいく性質のものであるかもしれません。

だからこそ、学部長は「これまで、学部長に求められるリーダーシップなんて身につける機会がなかった」と思って尻込みする必要はありません。これまでも、権限があったわけではなかったけれど、ある科目を担当する教員をまとめる業務を担ったり、オープンキャンパスや新入生オリエンテーションといった行事を他の教員と一緒になって取り組むようなことは、多くの教員が経験しているはずです。そうした経験の中から、自分が発揮してきた「目標設定・共有」「率先垂範」「同僚支援」を振り返ってみることで、自分なりのリーダーシップに気づくこともあるのではないでしょうか。

それでもなお、権限を持ったリーダーしかできないことがあります。日向野先生は、「権限を持たない人がリーダーシップを発揮しやすくするために『支援にまわること』と、さらに、かれらの結果に対して『責任を負う』という役割です」と述べています(前掲33-34頁)。リーダーは、現場の教員が成し遂げたことに対して、失敗を責めるのではなく、自分が責任を引き受ける覚悟が必要です。もちろん、現場の教員が成し遂げた成果を、「あれは実はオレがやったんだ」という「あれオレ詐欺」を働くなんてことはもっての外であることは言うまでもありません。

2024年2月25日追記:日向野幹也先生のリーダーシップ最小三要素の1つである「同僚支援」は、『高校生からのリーダーシップ入門』の第二刷からは「相互支援」に変更されたというご指摘をいただきましたので、それに合わせて、本記事も「相互支援」に修正いたしました。ご指摘ありがとうございました。

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