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弱いもの同士、助け合わなくてどうするんだよ

本田由紀著『「日本」ってどんな国?』のデータから


うすうす分かっていたけど、えっ、そうなの!

 この本には、多くの国際的な調査に基づくデータが掲載されています。詳しくは直接本を見ていただく必要がありますが、特に「第4章 友だち」にある以下のような調査結果のグラフを見て「これはどうなの」と感想を持ちました。(データ出所はOECDまたはISSP2017で、著者が作成)

〇p159>「家族以外の人」と交流のない人の割合 → 一番高い国民
〇p159>1週間あたりの社会的交流時間 → 一番少ない国民
〇p167>人は信頼できるか→「いつでも信頼してよい」→ 一番少ない国民
〇p168>「暮らし向きの良い人は、経済的に苦しむ友人を助けるべきだ」
 → 一番少ない国民

 絶望的な感じもあるけれど、魯迅曰く「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに同じ」。気を取り直してファクトを見ることが大事。
 「交流」「信頼」「助け合い」ってくらしの中で伝統的に大切にしてきたものではなかったかなと思う。仕方がない面もあると思うけど、日本っていつのまにか世界有数の「寂しい人が住んでいる国」になっていたんですね。一人ひとり胸に手を当てて振り返る必要がある気がします。


助け合う=協同 って単純に考えてます

 年頭に『「協同する」(助け合う・お互い様)にこだわる』として以下のような文章を書きました。

「炭鉱のカナリア」がその役割を終え、示されていた兆候が日常の中に顕在化してきた。宮台真司がいう「荒野」の様相になってきた。一方、「誤情報」と「感情」の組み合わせと「見えているところだけで考える」習慣が、「すべてを先送りする」ことを可能にしているようにみえる。立場によって異なる「現実」と不確かな共通感覚。民主主義の誤作動と分断の進行。しかし「分断」してる場合だろうか。ヒトは「助け合う」ことで厳しい環境の中を生き延びてきた動物ではなかったか。
視野狭窄から脱し、仲間同士を対立構図で見ることをやめよう。考えるより先に体が動いてしまうような「友愛」と「協同」のあり方は、貴重であり、かつ確かな足場になると考える。

 たしかにむずかしいことはたくさんあるけれど、あらためて「協同する」(助け合う・お互い様)にこだわるようにしたいと思います。

他者を手段としてのみならず、目的として扱え

 柄谷行人の『倫理21』で教えてもらったこの言葉が好きで、何か行き詰まるとこの言葉を思い出すようにしています。(もともとはカントのことば)
 私の理解によると、資本主義社会の中では、ひとは必ず他者を「手段」としてあつかうことになる。会社の中ではもちろんそうだし、最近では「親ガチャ」という言葉があって、この言葉からは「親」と「子」双方が相手を手段として見ることが前提となっているニュアンスを感じる。社会の中で生きるかぎり、他者を手段としてあつかうことから逃れることはできない。
 「目的」の意味は、もちろん「そのひとのため」ということで、親は子供の健やかな成長を願うし、家族はお互いの安全を願う。
 社会はシステムなので、お互いが他者を「手段」としてのみ扱う社会になることはあり得るかもしれない。でもそれはヤだな。
 そんなわけで、私はいまの社会の構成員がお互いに「他者を手段としてのみならず、目的として扱う」ように努める方向に向かっていくことを希望しています。


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