愛の向こうに夏がいた
夏なんてものは1日の始まりに、フロントメモリーを聴くか、Hotcakeを聴くか、Fine on the Outsideを聴くかでその日の自分が決まってしまうような、そう思わされてしまうような、そんな季節である。
ちなみに今日はHotcakeを聴いた。
クリープハイプが好きな人間の多くは暑い季節に起こった不条理を全て夏のせいと考えを放棄して責任逃れをするので、生きやすそうで皮肉にも羨ましいなあと思う。(ド偏見)
これが尾崎世界観の力か。
こんなことを言っているけどわたしもクリープハイプは好きでたまに聴いています。
最近『夏までに痩せよう!』みたいな動画がよく流れてくるんだけど、ダイエット界隈ではまだ夏は来ていないことになっているらしい。
ていうか、夏が始まる定義ってなんなんだろうね。
ていうか、夏本番ってなに?
ていうか、夏の終わりっていつ?
言葉だけで言うと、夏至が夏本番だと思っていたけど、その日が過ぎてもなお夏はまだやって来ないのだろうか。
夏ってかなり曖昧かも。
そりゃあ夏のせいにもしたくなるのかも。
ものもらいが出来たのでメガネ生活をしようと思ってコンタクトをやめた。
最初全然似合わねえじゃねえか、なんて思っていたけど見慣れていないだけで時間が経てば、意外に似合ってんじゃね?と思うほどわたしは単純な女である。
慣れていないせいか通勤の運転だけで目が疲れて休憩中にメガネを外すと、一気に目の前がぼやけて世界がモザイクになった。
前を歩いている人はどんな顔なんだろう。
あの車のナンバーは何番だろう。
目の前のお店の看板、あれ、なんて名前だっけ。
見ているものたちが分からなくなった。
ああ、生きてて見たくないこと知りたくないことってこうやって見えなくすれば生きやすいのかも。と思った。
自ら見ようとするから、聞こうとするから、知ろうとするから、その神経たちを研ぎ澄ますから。
自分で自分を苦しめていたことに気付く。
たまにはメガネやコンタクトを外して、イヤホンを爆音にして、自分の生きたい世界だけで生きてみるのもいいかもしれない。
現在進行形で恋する皆さんは''ないもの''に目を向けすぎているんじゃないだろうか。
恋人がわたしを好きじゃなかったらどうしよう。
好きな人が遊びに誘うことを嫌がっていたらどうしよう。
本当は連絡返したくないのかも。
漠然とした不安に襲われる気持ちは分かるし、ネガティブな想像をしてしまうこともすごく分かる。
恋する乙女は繊細で敏感な生き物なのだ。
でもさ、''あるもの''がきっと全てじゃない?
好きだから付き合ってる。
楽しいから、嫌じゃないから遊んでる。
連絡を返してくれるってことは嫌な印象は持たれていない。
進んでいる物事だけが、そこに起こっていることだけが事実です。
''ないもの''を勝手に想像して、自分で自分を苦しめて生きにくくすることって無駄だし疲れるし楽しくないよね。
ネガティブや不安と上手く付き合っていく方法を見つけるのってめちゃくちゃ難しいけど、その方法を見つけていくことは生きていく中ですごく大切なことだと思う。
そうやって自分と上手く付き合っていく方法を見つけるのが人生なんだ。
これ、過去のわたしに言っています。
過去のわたし、聞いてる?届いてる?
今のわたし、こんなに大丈夫になれてるよ。
ちゃんと''分かってる''よ。
毎日急に辛くなるね、自分はなんでこんな人間なんだろう、このままわたしはわたしでいていいのかなっていっぱい考えちゃうね。
でも大丈夫。誰かに大丈夫にしてもらおうとしなくて大丈夫。
今のわたしはひとりでも大丈夫になれるようになったよ。
誰かに自分の存在価値を見出してもらおうとしなくていいよ。
自分の価値は自分で見出していくものってちゃんと気付いてるよ。
自分のことで何度も涙が出た。
自分の未来の人生を想像して心臓がぎゅっとなった。
自分が一生自分でいることが苦しかった。
そうやって、こうやって何度も何度も自分を見つめ直して自己分析をして、努力をして、少しずつ自分の力で''大丈夫''になっていくんだね。
7月7日、七夕だからと言ってわたしたちは彦星には会えないし、織姫にもなれない。
てゆうかそんな年に一度を待ち望んで生き続けることなんて出来るわけがないだろうが、と思う。
現代にロマンチックは存在しない。
時をかける少女が映画館で観れる!という情報を得て、公開日に映画館に駆けつけたわたしだけど、あれはマジで神作品ですよね。
七夕の日に時をかける少女を見るってなんかちょっと特別感があってドキドキする。
何度見ても千昭に恋をするし、功介みたいな存在がいたらいいのにと思うし、真琴には腹が立つ。
千昭は最後『未来で待ってる』と真琴に伝えるが、ふたりは金輪際会うことなんてできないんだと思うと涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。
号泣しながら静かなシーンで鼻を啜る音を聞いて隣で見ている友達に笑われた。
お前も泣いていただろうが!
これからのふたりがふたりを感じられるのは、あの絵を通じてでのみなんだ。もう生身の人間として触れ合うことは不可能なんだ。と、その結末を見る度悲しくなってしまいます。
けれど、あのふたりが出会ったことにはちゃんと意味があって、千昭のように、真琴が気付いたように、素直に後悔なく生きる大切さをこの作品に毎度教えられる。
こうやって何度も大事なことを思い出して生きたい。
勿論、ふたりが一緒にいられる結末を視聴者の多くは望んでいると思うんだけど(わたしもその中の1人)、きっとどうであれ結末は最初から決まっていて、ふたりが出会った意味はふたりが大切なことを気付き合えることだったんだと思う。
ふたりの全てがedのこの曲に詰まってるよね。
''果てしない時間の中であなたと出会えたことが 何よりもわたしを強くしてくれたね''
''いつか他の誰かを好きになったとしても あなたはずっと特別で 大切で''
ふたりが出会えて同じ時間を過ごせたことが全て。
みんなが思うハッピーエンドにならなくても、このふたりにとってはこれもまたひとつのハッピーエンドだったんじゃないだろうか。
思春期特有の将来への不安と、25〜26歳に感じる将来への不安って少し似ている気がする。
進路が決まらない。やりたいことが見つからない。
周りが結婚していく。昇進していく。
わたしだけだと思っていた感覚は、実は同じ年齢のとき誰もが感じることなんだと気付くと、一気に自分に覆い被さる不安や重荷が軽くなっていく。
わたしにあった漠然とした不安は、実は全部わたしが勝手に作り出したものだった。
けれど、毎日自分のために頑張れるようになった今、わたしにあったその不安はもうそこにはいない。
そりゃあ1mmもないなんて言ったら嘘になるけど。
でも、人生なんとかなるっぽい。
てゆうか、わたしなら最終的には笑ってこの人生を終わりに出来そう。
わたしにハッピーエンド以外似合わないよね!くらいの感覚で生きている。
そのほうが楽しい!楽しいと思う方向に進んでいく!
わたし、自分で勝手にいろんなことがある程度分かっている人間だと思って生きていたんです。
でもね、全然違った!なーんにも分かってなかった!分かったと勘違いしてたみたい!
そりゃあ24歳のぺーぺーに何もかもが分かっている訳もなかった。
過去のわたしは思いやりや愛を勘違いして生きていたように感じます。
愛の形なんてものは人それぞれなので正解はないのだと思うんだけど、わたしの凝り固まっていた思考から導かれた思いやりや愛は本当にほんの一部でしかなくて、なんならそれはわたし自身が欲している愛なだけだったんだと思ったんです。
思い返せば、与えたと勘違いしていた愛は本当の愛ではなく、ただ自分が欲していた欲なのだと思う節があります。
わたしのわがままや不安を掻き消すための方法として都合良く''愛''を投影して自分がただ愛を受け取ろうとしていただけなんじゃないかと思います。
なんとも恐ろしい人間ですね。本当にごめんなさい。
思いやりや愛は受け取った側は判断することであって、わたしが判断することではなかったんですよね。
逆に、わたしが愛だと思っていない当たり前のものが相手からすると愛だったかもしれないし、思いやりだったかもしれない。
これは受け取る側の価値観なので、その人によって感じ受け取るものも違うと思うのだけど。
かなり頭の中が整理されたおかげで毎日気付くことがたくさんあります。日々成長中!
以前のわたしは''恋心''が愛や思いやりの全てだと思っていたんです。
価値観が似ている人はいても、全く同じ人なんてこの世には存在しないですよね。
もちろん、価値観が似ている人とお付き合いをすると2人の間での問題は少ないかもしれないけれど、好きという感情はそんな価値観が似ているから、で生まれるものではないじゃないですか。
価値観が遠い相手を好きになったのだとしたら、その価値観を受け入れて、自分の価値観と上手く繋ぎ合わせていくしかない。
人は他人の何かでは変わらないので、自分が変わったほうが手っ取り早いです。
それじゃあこちらばかりが相手に合わせて本来の自分ではなくなってしまうのでは?と思ってしまうかもしれないんだけど。
でも、そうじゃなくて。なんか。そうじゃなくって。
きっとわたしのことが好きで一緒にいたいと思ってくれる相手なら、相手も同じことを考えてくれると思うんですよ。
その中でも、ブレさせたくない自分の意思はきちんと持ち合わせた上でね。
そうやって自分を押し付けすぎず、お互いがお互いのために繋ぎ合わせていく。
言わずともお互いを思っての言動をすることが思いやりで愛ではないんだろうかと今のわたしは思います。
自分自身が勝手に生み出した欲なんてものは、結局自分で満たしてあげることに意味があるんだと気付きました。
''してくれた''ことよりも、''しないでいてくれた''ことに目を向ける意識をする。
そうやってお互いを少しずつ時間をかけて分かり合っていくことが本当の愛を育てるために必要なことのひとつじゃないのかな。
こんな分かったような口を聞いているけど、全然まだまだ未熟者なのでこの考え方も人それぞれですね。
でも相手を分かりたい、相手の価値観に少しでも合わせたいと思える人と出会えるのってそれだけでかなり幸せだと思うの。
ありのままの自分で誰かに好かれたい、努力せずして誰かと長い時間を共有したい、なんてどれだけ傲慢なことか。
誰かを好きになることってたとえその恋が叶わなくても、奇跡がもうそこには起こっているんだと思う。
その人と付き合える、結婚できるなんて特大のクソデカ奇跡だよ。
今大切な人がいる方は絶対大事にしてあげて?
同時に自分のこともね。
誰かを好きになるってすごく素敵なこと。
相手の思う''幸せ''に自分も含まれたら嬉しいけど、だけど、自分がいない世界でも相手が幸せならそれでいいな、と思えたときに初めて''愛''が生まれる気がするんです。
なんて、綺麗事に見えちゃうかな。
恋愛は人生の+αなので、なくても十分人間は幸せになれるんだけど、誰かと同じ時間や価値観を共有することによってより一層幸せになれるのなら、そう思える人と出会えたのなら、今より少しだけ人生は豊かになるんじゃないだろうか。
少し前に、ああ、わたし変わっちゃったんだって確信する出来事がありました。
前のわたしだったら好きになっていたかもしれないな〜と思う人に出会った。
結果、その人と恋愛関係には発展させなかったんだけど、恋愛体質、恋愛依存と自覚していたわたしだったので、わたしこんなにも恋愛に対する価値観が変わったんだ、と改めて感じて。
別に何も悪いことではないし、むしろ自分的には良い変化だな〜と、すごく自分のことを俯瞰して見れるようになっているように感じました。
わたしその人に対して、尊敬できるところがないと好きになれないのかもって気付きました。
この人といて自分は何か得られるだろうか、成長できるだろうか、という観点で相手を見るようになっていたんです。
今までかなり直感で生きてきたので、こういう考え方をするようになった自分がなんだか別人になった気がして、なんかちょっと興奮しました(笑)
もちろん、わたしもそう思われる人間でありたいな〜と思うので努力は怠ってはならないですね。
たまには休憩も必要だけどね!
元恋人が何かに夢中になっている人が好きって言っていた気持ちがすごく分かるな〜と思う。
こうやって人は自立していくんだなと。
そうやってひとりでも楽しく、また大丈夫な状態でも、その人と一緒にいたいと思うことこそが、本当の好きなんじゃないかなって。
分かっていたけど今回それをすごく実感しました。
と同時に、ああわたし今人生楽しんでるんだって、確信になって、それに気付けたことがすごく嬉しかった。
好きだった人とお別れしても、ちゃんと自分の足で自分の人生を歩めている、楽しませれている自分がいる。
まだ完全覚醒!とまではいかないものの、自立へのかなり大きな一歩を踏み出せている気がする。
今の自分が大好きです。
理想の人なんてこの世に存在しません。
多分理想の人なんて自分か、脳内で生み出した架空の人物くらいでしょ。
でも自分と似ている人間は存在しても同じ人間は存在しない。
絶対どこか違って理解できない部分がある。
そこをどれだけ許して分かり合っていくかが誰かと一緒にいる上で大切になってくるんじゃないかと思う。
同じ時間を多く共有すればするほど、嫌でも近いその誰かに影響されていく生き物なんですよ、人間って。
マジで他人との共存って難しいっすね(笑)
誰かに依存して生きることほど楽なことってないよな〜。
自分の不安を誰かに依存することによって安心感を与えてもらおうとするの、もうやめない?
自分の人生くらい自分で責任持とうよ。
調べれば良い按配で築かれる依存関係も少なからずあるらしいんだけど、まあ大体はそれに当てはまらないと思うので、自分の人生の主役はわたし!わたしがわたし自身を幸せにする意識を持って生きていたら自然と誰かに依存するような思考とは離れ、大切な人と適切な距離感を保って上手く付き合っていけると思います。
それでも依存が完全に悪いとは思わないし、それで救われるふたりがいるのならそれはそれで正しい判断だと思う。
わたしが言いたいのは、もしその''依存"で大切な何かを壊してしまうのであればそれとはおさらばしたいよねってだけの話です。
長年そういう生き方をしてきたのならすぐにその脳みそを変えることは難しいから、生きやすい自分らしい生き方をゆっくり見つけていけたら1番良いよね。
わたしも今いろいろ試したり調べたりして自分の1番楽しいと思える生き方を模索中!
一緒にゆっくりじっくり幸せを見つけていこうね。
友達が花火見に行きたいよな〜と言っていて、うわ〜行きたすぎるしそれ夏しすぎてない???と頭を抱えた。
てゆうかもうそんな季節か〜とわたしもまだ夏を受け入れる準備が出来ていないことに気付く。
ノースリーブ着てるくせに、扇風機つけてるくせに、全身に日焼け止め塗りたくってるくせに。
なんかこのまま夏を消費していくのって勿体無いな。
単純なのでAgefactoryの''向日葵''を聴いて、本物の向日葵を見に行きたくなった。
この曲、mvを見てから聴くと、全く違う曲に聞こえる。
こんな切ない曲なんだなって、映像が与える影響力ってすげえんだってカメラマンの友達がより一層輝いて見えた。
ねえ、どんな夏にする?
わたしたち、この夏、どうやって生きていく?
海も向日葵も花火も、全部わたしたちだけのものにしない?
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