太字がもたらすデジタルとアナログでの効果の違い
書籍、つまりアナログでの読書で、太字がわずらわしく感じることがある。
なんというか、音楽を聴いていて、特定の箇所でいきなり音量ボリュームがあがる、みたいな。強調表現としては強引じゃない? という違和感。
というのも、読書になれてくると、文章のリズムの中で、そろそろハイライト、いちばんの盛り上がりの場が来るぞー、と事前の予感がある。
そういう箇所には、接続詞として「「つまり」「すなわち」「要するに」「言い換えると」「換言すれば」「煎じ詰めれば」「大事なことは」といった言葉が頭に添えられている。
なので、わざわざ太字で強調されてしまうと、突起が出っ張りすぎて、読む視線にひっかかりすぎる、という感覚がする。
もちろん、見出しや小見出しはいい。目次の時点で了解している。
どうも太字による読者の誘導という働きかけには、老婆心を感じてしまう。
悪意がないことは承知なのだけど、甘やかされているような居心地の悪さ。
よって、あくまでアナログの書籍では、太字が多発しないプレーンな感じが好ましいと思っている。
一方、さいきん感じたのは、noteやブログなどのデジタル上での文章の場合は、適度に太字があるほうが読みやすい。
太字以外の、ラインマーカーを引く表現も同じで、そんな違和感はない。
デジタル上だと、どうしても文字を負う視線が滑りやすい。
テキストの質感がつるんとしている。
適度な太字の強調は、手がかりや足がかりになる突起になる。
ロッククライミングで、手がかりとなる岩の出っ張りのことをホールド、というらしい。これと同じ役割を果たしてくれる気がする。
……というようなことを考えていて思い至ったのは、さいきんアナログの書籍で太字があるのは、それがkindle本(電子書籍)としても販売されている本だからかもしれない。
アナログとデジタル、どちらで読まれることを想定して作っていると考えれば、合点がいく。
そうなると、太字が多用されている本は、kindle本(電子書籍)で購入してみるのもいいのかもしれない。紙の書籍よりも安いだろう。
さして重要ではない事柄については、相手や世間に合わせるタイプである。
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