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居酒屋にて


名前も知らなければ、素性も知らない

その店は毎日午後6時に開く。1分早かったり、1分遅れたりなどということは、一切ない。年配のおばちゃんが女子大生のアルバイトを使い、女性ばかりでやっている。女性ばかりとはいうものの、それを目当てになどという客はほとんどいない。
客は8割方が中高年のおじさん、残りの2割はややおじさん化した女性客だ。ここは正真正銘の飲み手が集う居酒屋なのだ。現実社会からの幽体離脱を体験させてくれるようなおしゃれなカフェでも、星が幾つついたなどというかしこまった店でも、食材の新鮮さや安全安心をうたい文句にするような店でもない。いわば勤め帰りに晩酌をすませて帰るための店なのだ。
厨房ではおばちゃんが手際よく包丁をふるい、ぼくが注文したアジの刺身を造ってくれている。若い頃のお袋を見ているような気分になる。いい風景だなと思う。そんなことを隣り合わせた酔客と、焼酎を飲みながらぽつりぽつりと語り合う。名前も知らなければ素性も知らない客だが、人のよさそうな笑顔を浮かべている。そういえば何度かここで隣り合わせになったことがある。どこにでもあるふつうの居酒屋の風景にからだが温められていく。へべれけになるまで腰を据えるのは無粋というものだ。
勘定を済ませて夜のまちに出た。店の入り口を振り返る。臙脂色の暖簾が白熱灯に照らされてゆっくり揺れている。
「俺もふつうのおやじになったということだな」
そんなことを思いながら歩き出した。
月が綺麗な夜だった。

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