清水 哲男

作家で写真家、そして最後の無頼派清水哲男。放浪の中で日々を過ごし「黙々と歩き、訥々と語…

清水 哲男

作家で写真家、そして最後の無頼派清水哲男。放浪の中で日々を過ごし「黙々と歩き、訥々と語る」が信条。キャリア40年で出してきた本は40タイトルを超える。属さず、与せず、独自の道を歩く。

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    BLUES on the streets

    路上で暮らす猫たちのポートレート10枚組。 僕は町々に住み暮らす猫を見てきた。 視線を逆にすると、僕は町々で猫に見られてきたことになる。 当たり前の僕の暮らしを猫の視線で見たらどうなるだろう。 僕が見ているものを猫たちはどう見ているのだろう。 一つのものは視線の方向を換えることで別々のいくつかの側面を持っているとはよく言われることだが、その視線というやつは人の視点を離れることはできない。人というやつは、いや、僕というやつはそれほど傲慢なのだ。人の理知に勝るものはないと思い込んでいる。自ら多様な視点を捨てるなんて、創造性と想像力を捨てているのと同じだと思う。 萩原朔太郎がこんなことを言っている。「同じ一つの現象が、その隠された『秘密の裏側』を持っているということほど、メタフィジックの神秘を含んだ問題はない」と。「メタフィジックの神秘」は「ミステリー」と言い換えてもいい。 僕は故意に理知を捨ててこのミステリーの空間を彷徨ってみたいと思った。猫の視線で僕を見ようと思ったのだ。いや、猫に化かされよう!と。 夢の中で猫になるようなもんだなと、人は笑うかもしれない。確かにそうかもしれない。でもその後で、夢の猫が自分であるか、現の自分が自分であるか、ゆっくり考えればいいじゃないか。
    1,980円
    清水哲男事務所のBook Shop
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    清水哲男の本「揺れて歩く ある夫婦の一六六日」

    60歳になった時、思いました。 ぼくはあとどれくらい生きられるのだろうかと。 平均的な余命は20年あまり。その間に何ができるのだろうかと。その背景には、若い頃思い描いていたような道のりを生きてきたのだろうか、生きるとはいったいどういうことなのなのだろうか、そんなことを思い続けてきた自分がいます。 そんな時父が末期の肺がんだと告知され、平均的な余命は6カ月程度だと宣告されたのです。 父は、何もせずに死を待つという道を選びました。もう、充分生きたと。 それを受けてぼくは父に残された時間すべてをつぶさに記録しようと思いました。市井の片隅で生きる無名の父です。その死への道程に、死とは何か、生きる意味とは何かが見えるのではないかと思ったのです。死に直面して、人は最後の時間をどう生きるのか。後に続くぼくにとっては、父に死に方のコツのようなものを、最後に教えてもらいたいと思ったのです。 そこには父を支えてきた母の父の死への思いはもちろん、最後になにを伝えあいたいのか、ふたりで最後の時間をどう過ごそうとしているのかを含めて、ちゃんと見ておきたい、記録しておきたいと。それを通して、死をめぐる人々のありのままの姿を普遍的に描けないか。まだまだ死は自分の問題ではないという若い世代の人たちにも、死というものを通して生きるということの意味を考えてほしいと思いました。 この本は、ぼくの両親の物語ですが、誰の親にも、誰にも訪れる物語なのです。 タイトル:揺れて歩く~ある夫婦の一六六日~ ジャンル:ノンフィクション 編集・出版:エディション・エフ 発行予定時期:2020年4月15日 著者:清水哲男 撮影:清水哲男 頁数:192p 体裁:B5変形横型(182mm×210mm) ISBN:978-4909819086
    2,420円
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    清水哲男の本「少年ジェットたちの路地」

    「昭和」はぼくらの宝箱。 京都の片隅で思い切り毎日を生きる子どもたちの日常を描いた心温まるノンフィクション。 1994年 風媒社刊 四六判 166頁 ISBN4-8331-2030-5 C0095 複数冊、他の商品と合わせてご購入の場合、決済方法「銀行振込」を選択してください。送料の対応をさせていただきます。
    1,452円
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    BLUES on the streets

    路上で暮らす猫たちのポートレート10枚組。 僕は町々に住み暮らす猫を見てきた。 視線を逆にすると、僕は町々で猫に見られてきたことになる。 当たり前の僕の暮らしを猫の視線で見たらどうなるだろう。 僕が見ているものを猫たちはどう見ているのだろう。 一つのものは視線の方向を換えることで別々のいくつかの側面を持っているとはよく言われることだが、その視線というやつは人の視点を離れることはできない。人というやつは、いや、僕というやつはそれほど傲慢なのだ。人の理知に勝るものはないと思い込んでいる。自ら多様な視点を捨てるなんて、創造性と想像力を捨てているのと同じだと思う。 萩原朔太郎がこんなことを言っている。「同じ一つの現象が、その隠された『秘密の裏側』を持っているということほど、メタフィジックの神秘を含んだ問題はない」と。「メタフィジックの神秘」は「ミステリー」と言い換えてもいい。 僕は故意に理知を捨ててこのミステリーの空間を彷徨ってみたいと思った。猫の視線で僕を見ようと思ったのだ。いや、猫に化かされよう!と。 夢の中で猫になるようなもんだなと、人は笑うかもしれない。確かにそうかもしれない。でもその後で、夢の猫が自分であるか、現の自分が自分であるか、ゆっくり考えればいいじゃないか。
    1,980円
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    清水哲男の本「揺れて歩く ある夫婦の一六六日」

    60歳になった時、思いました。 ぼくはあとどれくらい生きられるのだろうかと。 平均的な余命は20年あまり。その間に何ができるのだろうかと。その背景には、若い頃思い描いていたような道のりを生きてきたのだろうか、生きるとはいったいどういうことなのなのだろうか、そんなことを思い続けてきた自分がいます。 そんな時父が末期の肺がんだと告知され、平均的な余命は6カ月程度だと宣告されたのです。 父は、何もせずに死を待つという道を選びました。もう、充分生きたと。 それを受けてぼくは父に残された時間すべてをつぶさに記録しようと思いました。市井の片隅で生きる無名の父です。その死への道程に、死とは何か、生きる意味とは何かが見えるのではないかと思ったのです。死に直面して、人は最後の時間をどう生きるのか。後に続くぼくにとっては、父に死に方のコツのようなものを、最後に教えてもらいたいと思ったのです。 そこには父を支えてきた母の父の死への思いはもちろん、最後になにを伝えあいたいのか、ふたりで最後の時間をどう過ごそうとしているのかを含めて、ちゃんと見ておきたい、記録しておきたいと。それを通して、死をめぐる人々のありのままの姿を普遍的に描けないか。まだまだ死は自分の問題ではないという若い世代の人たちにも、死というものを通して生きるということの意味を考えてほしいと思いました。 この本は、ぼくの両親の物語ですが、誰の親にも、誰にも訪れる物語なのです。 タイトル:揺れて歩く~ある夫婦の一六六日~ ジャンル:ノンフィクション 編集・出版:エディション・エフ 発行予定時期:2020年4月15日 著者:清水哲男 撮影:清水哲男 頁数:192p 体裁:B5変形横型(182mm×210mm) ISBN:978-4909819086
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    清水哲男の本「少年ジェットたちの路地」

    「昭和」はぼくらの宝箱。 京都の片隅で思い切り毎日を生きる子どもたちの日常を描いた心温まるノンフィクション。 1994年 風媒社刊 四六判 166頁 ISBN4-8331-2030-5 C0095 複数冊、他の商品と合わせてご購入の場合、決済方法「銀行振込」を選択してください。送料の対応をさせていただきます。
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原発のある風景② 若狭半島

敦賀湾に突き出た若狭半島を立石(たていわ)岬目指して、県道141号を北上する。対岸に北陸電力敦賀火力発電所が見える。石炭を燃料に巨大な建物だ。この半島の先っぽには日本原子力発電敦賀原子力発電所の1号機、2号機、隣接して新型転換炉ふげん、高速増殖炉もんじゅ、さらに半島の反対側には関西電力の美浜原子力発電所がある。半島全体を核の傘で覆ったような、そんな感じだ。 しかしここにあるのは原発だけではない。多くの集落が点在し漁港がある。原発に囲まれながら人々は普通に暮らしている。観光地

    • 原発のある風景① 島根原子力発電所

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        • さよならだけが人生だ

          酒が飲めるようになった息子を伴って、久しぶりの京都の店を数軒訪ねた。 「静」や「たこ入道」「たつみ」「スタンド」「サンボア」など、もう50年近く通っている店ばかりだ。中には祖父さんに手を引かれて行って、60年以上顔なじみの店もある。鹿児島に移って27年、その間年に数回しか顔を出さなくなってしまった。でも、たまに行くと、ああ、故郷京都に帰ってきたなと、ほっとすること頻(しきり)だ。 そこで息子相手に昔の話をする。自分がちょうど息子の年頃だった頃の話だ。どんなふうに酒を飲んでいた

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          解体すべきもの

          もう7年以上前になる。ほんやら洞が焼け落ちた翌日。取るものもとりあえず、ぼくは京都に飛んだ。 そして、後片付けを手伝いながら、解体を待つほんやら洞の暗闇の中で、解体されるものについて考えていた。それは、ひょっとすると、今なおぼくの中でくすぶり続ける70年代に対するノスタルジーなのかもしれないなと思った。 あの頃からぼくは、どうやって時を重ねてきたのだろうか。 あの頃目指した何かを手に入れることができたのだろうか。 何よりもぼくは成長してきたのだろうか。 闇の向こうに何かが見

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          夢の会話

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          笑うサメ

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          いかにも俺らしい

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          無頼の果てに

          大腸ガンなどという大病を患ってから、酒を遠ざけることが多くなった。健康のために、などということではない。酒に対する恐怖心が身体のどこかにこびりついているのだ。1杯の酒がガンの再発を招くのではないかと。知人の医師などは「なにを今更」と笑う。 術後5年が経過し、ようやく少しだけ口にできるようになったが、以前は浴びるほど飲んでいたウイスキーには今もって手が出ない。 度数の高さが喉を焼き、胃の粘膜を焼き、そこが新たな病巣になるのではないかと怯えているのだ。 若い頃、憧れてはいたが、な

          無頼の果てに

          アリとキリギリス

          「久しぶり。元気か?」 朝いちばんに友人メッセージが届いた。 同い年の彼だが定年前に早期退職募集に応じて58歳から10年趣味に生きてきた。 「俺は元気だ。金にならん仕事ばっかりでバタバタしてる。君はいいなあ、悠々自適で」 と自嘲すると。 「同じだよ。俺だって入ってくるのは年金だけだ」 と言うので 「だって悠々と暮らしてるじゃないか。俺はあくせくしてる」 と返したら 「それは蓄えのおかげだな。アリとキリギリスだ」 ん? 俺はみんなが働くべき時に遊んでいたように見えているようだ。

          アリとキリギリス

          苦しみに満ちてるのが人生や

          僕は6年前に大腸がんの手術を受けた。ステージ4でリンパ節に転移があり、術後も1年ほど抗がん剤治療を続けた。それでも5年後の存命率は20%程度だと言われた。もしその2割に入れなくても、それもまあ人生だと、できることを精一杯やろうと前向きに生きてきた。結果的にその2割の中に入ることができた。しかしこの6年をふりかえると、けっこう新しいことに手を出し、がむしゃらに生きてきたような気がする。そのせいもあるのか、手術前よりも元気になったのではないかという知人友人も多い。 実際どうなのか

          苦しみに満ちてるのが人生や

          居酒屋にて

          その店は毎日午後6時に開く。1分早かったり、1分遅れたりなどということは、一切ない。年配のおばちゃんが女子大生のアルバイトを使い、女性ばかりでやっている。女性ばかりとはいうものの、それを目当てになどという客はほとんどいない。 客は8割方が中高年のおじさん、残りの2割はややおじさん化した女性客だ。ここは正真正銘の飲み手が集う居酒屋なのだ。現実社会からの幽体離脱を体験させてくれるようなおしゃれなカフェでも、星が幾つついたなどというかしこまった店でも、食材の新鮮さや安全安心をうたい

          居酒屋にて