見出し画像

執着は苦しみの素。でも、

人は誰でも苦しみたくは無い。若い頃の特権、悩むこと・・今の時代はそんなことは言わないかな? でもきっと、社会に出る前の不安、社会に出てからの戸惑いや大人の世界へのさまざまな感情の去来、将来のこと、自己への内省などなど、きっとやはり若い頃は悩み多きもの、と思います。

ロストジェネレーション=ロスジェネと言われるそうですが、私の世代。1970年代前半生まれの年代は、小学校時代がバブル、思春期のころにそれが崩壊、先輩がたが「就職氷河期」、団塊ジュニア世代にもあたるのかな。高校時代は夢を持っている同級生は少なくて、適当に楽しく生きていければ・・という雰囲気があった。成人してからも。

そんな中で何故かいつも、大きな(とても叶わないような)夢を見ていた私は、周囲には面白がられて、有難いことに友人たちはその話を聞くのを楽しんでくれて「共感は出来ないけど面白い」とか「自分には出来ないけど頑張って欲しい」とか。目上の方々にも「今時珍しい」という感じで評価していただいたり、目を掛けていただいたり。とても恵まれていた。

現実感覚が甘かったので、二十代前半で元気な活力と自らに課したハードルを越えられずに疲れ果ててしまって、いわゆる挫折感を味わったのですが、そこから4年ほどして少しずつ浮上していく段階で出会った、ある長老のような方(70代の、いわゆるスピリチュアルな分野で「悟り」などを意識して自己啓発されている方)と話していた時、

ヒーリングを少しかじって、元気になりつつあったその頃、再び以前の夢を目指そうかと考えていたこともあってその話をすると、「執着があるうちは心が静かにならない」から、「癒しの道を目指すならば手放した方が良い」と。確かにそれは間違いないし、当時、自分でもそういう感覚をキャッチしてはいたのですよね。なので納得しました。

実際にヒーリングが起きていくと「欲」やそれに付随する感情思考がどんどん薄まってそのうちに消えていく、その連続なので。「長老」の話はもっともですし、インド哲学や仏教でも同じことを伝えています。「目標」であっても煩悩のひとつになるのですよね。

ですが、スピリチュアルな分野を歩み、人に癒しや情報を提供する側になって20年が過ぎた今は、また少し違う感覚を持っています。例として上記、自分のことを書きましたが、誰にとっても、特に若い世代の人々には「苦悩する権利」もあるし、夢や目標を持つということは、(例えば起業するとか、マイホームを持つとか)その分、苦労することでもあるし、悩ましい案件も何かしら伴う。

目標や夢を目指すために、他者を蹴散らしたり、陥れたりするのはもちろん良くないことなので、そういう意味では「執着」するべらからず。と思うのですが、自分の中で静かに穏やかに思い続けていることは、そこからまた多くの良い縁やエネルギーを生み出して、喩えゴールだと思っていた場所に至らなかったとしても、自分の糧にはなるのだと思います。

それを「希望」と表現してしまうと、何だかぼやけてしまうのですが、「執着」をうまく「夢」「目標」に変換出来れば、さらにそれを、自分がポジティブになれる宝物として、大事に持ち続けることで、その人は豊かな人になっていけるのではないかと思います。ただ何となく生きているよりも。誰かの価値観に乗っかって生きているよりも。

だから、周りの大人の誰かが「夢なんて持つな」と言っても、持ち続けたら良いと思います。自分の直感に従ってください。

執着は苦悩の入り口。でも「夢は持たない方が良い」ということではない。時にそのために苦悩することも、人生を強く豊かにしてくれるし、人としての知恵を深めてくれる。

同じ世代の人々が多いせいか、ヒーラーをしてきてサロンで聞くお話の中で、「大変そう」なことを人々(同じ世代の女性たち)が避ける傾向がある、と感じて来ました。この世代には、「目標!」「大志!」という話はなかなか女性は特に、伝わりにくのですが・・・若い世代の人々はぜひ、5年後、10年後の自分に良いイメージを持って、目標を設定して頑張る姿勢という選択をおすすめしたい。

ただ言われたことをやる、言われた通りにやる、のではなく、「自分って」「自分の人生って」ということを、徹底的に考えて、感じて、その上で自分を信じて(誰かや何かを信じるのではなく自分を信じて)、自分の道を歩き出して欲しい。

「人は人 吾はわれなり とにかくに われ行く道を われ行くなり」 

西田幾太郎(日本を代表する哲学者)

以前書いたブログ記事でこの言葉を取り上げています(2018年3月)

少々長いですが、興味ある方は読んでみてね。

Love and Grace
Amari

この記事が参加している募集

新生活をたのしく