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競争について考える

皆様GWはいかがお過ごしでしょうか?
のんのんはnoteの執筆と家業に駆り出され全身筋肉痛の状態です。

以前、noteで紹介したよよよさんのブログで強烈な回答を目にしたので、今日は競争について考えてみたいと思います。

殺し合いをさせて優秀な人間を選出し劣等な異質を排除する、競争にはそうした目的がある、殺し合いで互いを高め合わせる、それが社会全体が成長するには一番いいとされてるので競争の象徴であるスポーツも良いもの、とされているのです

スポーツというオブラートに包んでスポーツが上手い人間には社会的にある程度の優良な地位をもたせることで「競争とはいいものなんだ」という価値観を人々に埋め込む

競争がいいものだと洗脳された人々は日々の仕事や社会でも強者をもてはやし、弱者をないがしろにすることに罪悪感を持たずに済んでいるのです

社会の本質は殺し合いですからねより

過激な比喩とも考えてしまいますが、年間約2万人が自●していることを考えると殺し合いの側面もあると思います。

よよよさんの言う競争の目的は、『優秀な人間を選出し、劣等な異質を排除する』にあるとおっしゃっています。
まさに競争の正・負、裏・表を的確に表現していると思いました。

正の側面で考えると優秀な人間を選出して、才能を伸ばす機会を与えるのは社会にとっても本人にとっても良いことがだと思います。
では、なぜ競争が苦しいのか?
それは、劣等な異質を排除する負の側面があるからだと思います。

自由主義が進み競争が激化した結果
・敗者はないがしろにして良い
・敗者は努力不足だから負けて当然
・勝者総取り!!
そんな空気感を感じる機会が増えてきました(´・ω・`)

また、今は戦国時代のように自力救済が許されないので、敗者を煽ったり笑いものにしても報復をほぼ考える必要はありません。
報復する場合には、司法を頼る必要があり、大量の金と時間と労力が必要なことから経済的にも貧弱な敗者に対して怯える必要もありません。
身の安全がほぼ保証され、報復を恐れる必要がなければより敗者への当たりは苛烈になります( ;∀;)

身分差があった江戸時代の方が、自分は家柄でこの地位が手に入った身分が低い者でも優秀な者や才ある者がいる。
与えられた身分なら、その身分に見合うように心がけよう。
高い社会的地位には義務が伴う一種のノブレス・オブリージュが働いていたと思います。

現代は家柄で地位が決まることはほぼなく(同族企業とかありますが)
学歴や資格などライバルを押しのけて努力で手に入れることになります。
与えられるものではなく自分で勝ち取ったものなので、ノブレス・オブリージュも働きにくいと思います。
なのでこの問題は根が深い(;´Д`)

小学校のスポーツテストや運動会で身体能力が問われ
中学・高校の相対評価や試験で学力が問われ
大学ではモテに伴うコミュニケーション能力が問われる
結婚では総合力(容姿・年収・職業・家庭環境)が問われる

小学校の頃から競争・競争・競争です(;・∀・)
しかも、よよよさんの言うように敗者をないがしろにすることに罪悪感を持たずに済ませていることから、敗者にとって生きづらさを加速させているように思えます。

敗者になっても新天地で新たにやり直せれば良いのですが
義務教育下では転校は難しく
高校以降も転校のハードルは高いです。
就職してからも転職のハードルは依然高いまま
このような閉鎖的な環境がより競争の激化と敗者への当たりが強くなっている原因とのんのんは考えます。

真面目に働いて不平不満はあっても社会に仇をなさない敗者に対して、もう少し承認と尊敬があればと思いますが、競争が進む現代では難しいと感じるのんのんでした(;・∀・)
















マジェスティックアカデミーから返金されなかった一万円稼ぐのが正直な目的ですm(_ _)m 支援してくれたら泣いて喜びます(´;ω;`)