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ハナの日夏の日母の号泣25-2023/08/07

 今日は、語呂合わせで「鼻の日」「花の日」「バナナの日」とか。いろんな日らしい。鼻の日を意識したのは、赤ハナをつけるようになってからだから、ほんの数年のこと。クラウンになったからね(笑)。暑苦しい今夏、この日に思い出したのは、夏の日に父が入院する病院で号泣した母の姿。もしかしたら誰にも話したことがないことかもしれない。

 これまでにも度々書いてきたが、私が高校3年の5月、父が大病に倒れ約1年間入院、父は重度の障害者になった。命はとりとめたが、重たい障害が残るらしいとわかった頃合い、入院が3か月を経た頃だ。母は病院に泊まり込みながらも、悲壮な顔なんかみせなかった。
(参照:「病室でピクニック♪~私の母はクラウンだった~8-2022/05/27」https://note.com/officesacchi/n/n38d94ff0df3e)子どもの頃から私に「ユーモアがだいじ♪」とよく言っていた通り、ユーモア精神を発揮して父の看護をしていた。もちろん、私もおとなになりかけの18歳だから、ふるまいとは裏腹に母がどれほど切ない気持ちで日々過ごしているかわかっていたつもりだった。

 でも、結局母のユーモアに励まされるばかりの私は、ある日ある出来事で母が突然号泣する姿に、とんでもなく狼狽した。その場をどうしたのか、よく思い出せない。父のいる病室ではなかった。えーここでーー?!って思ったから、病室のあるフロアの廊下か面会のスペースだったか。ある出来事とは、もめごとがあったわけではない。父の親族がお見舞いに来てくれただけだ。だから、よけいに私には訳わからなかった。なにかやりとりの中で引っかかることを言われたのかもしれないが、面談中は穏やかに対応していた。 

 「お母さんなんでそんなに泣くのー?!」
 ただただそう思ってオロオロした。

 少し時間を経て気づいた。
 母にとっては納得できないこともあったかもしれない連れ合いの家族との長年の歴史。感情の折り合いを付けながら向き合うこともあっただろう。折り合いの付けにくかった感情の欠片は、いつしか滓のように溜まっていたのかもしれない。そして、父の発症からの時間の中で吐き出せずにいた想いもまた溜まってきていて、それらが一気に噴き出したのだろう。18歳の私はオロオロするばかりで、どうすればよかったのか、未だわからないまま。ただ、母は泣いた後いつものユーモア母にあっという間に戻っていった。

 今、赤ハナクラウンになって、あの時母の号泣する姿に出会えて、よかったなと思えている。あの時一気に噴き出した母の心情の交々は今もよくはわからない。けれど、娘の私がいるから我慢して泣けないんじゃなかった。とにかく母はわんわん泣いて、閉じて開けないようにしていた涙のふたが「ぱこん」と開いて噴き出したのだ。私は何もできなかったけど、そこに居ることができた。少なくとも母にとって、居てもいい存在?居ることを許されたのだ。母のむき出しの姿に狼狽した切ない記憶だ。だが、そんな母と一緒に居られたのは、とんでもなくかけがえのない時間だったのかもしれない。今ようやく記憶を辿り、そう思えている。

 1年前(2022年夏)から、OEKAKIクラウンさっちーという絵を描いている。いつか一番しんどかった時の自分を「ぎゅー」って抱きしめる絵を描きたいなーなんて思っている。号泣する母を「ぎゅー」ってするOEKAKIクラウンさっちーもいつか描けたらいいなーと(赤)ハナの日の今日妄想している。
(表紙の写真は、OEKAKIクラウンさっちーの「ぎゅー」の図。まだ誰かを抱きしめる絵は描いたことがない、いや画力が追いつかず描けないのだ(涙)。うーーむ、いつか、、、)

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