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ターミナル・ハピネス

 かすかに消毒薬の匂いがする。

 気力を振り絞り、いつもの作業に取り掛かる。そうすればまた娘に会える。

 昨日は、娘が就職して一人暮らしを始めた頃の書類の整理をした。気になりながら、ずっと本棚の中段で横積みにされたままだった。

 入社時の関連書類、単身者向け賃貸マンションの契約書、光熱費の口座引き落としの手続き書類など。原紙を引っ越し先に持って行ったものについては、それぞれ丁寧にコピーが残してある。

 「あの娘らしいわ...」

 そう思いながら、きれいに揃えて左上でクリップ止めされた書類の束を種類ごとにファイルに綴じていく。特徴のある手書きのメモがところどころに見えた。急いで書いてもどこかのんびりとした感じの丸みを帯びた文字。それが娘の文字だ。


 梶田叔子は、娘が3歳の時に夫を急病で亡くし、それからは母一人子一人で懸命に生きてきた。それから20年...。

 遠方への就職が決まった娘を送り出す頃は、準備で慌ただしく日々が過ぎていった。離れ離れになる感慨にふける間もないというのが正直なところだった。新幹線の改札口で大きな鞄を抱えた娘に手を振って別れたときは、一人になる寂しさよりもほっとした気持ちの方が勝った。

 そんなことを思い出しながら昨日の作業を終えた。

 今日は、引き出しの整理だ。娘が小学校に入る時に、なけなしの貯金をはたき、中古家具屋で何とか見つけて買った学習机。ところどころに小さな傷はあるが、きれいに使っているところはやはりあの娘らしい。

 右上の引き出しを開ける。筆記具が並んでいる。短くなった鉛筆やインクの切れかけた赤ボールペン。小さくなった消しゴム。これぐらいなら捨ててもいいだろう。ほとんど目盛り線の消えかけたプラスチックの定規も出てきた。これも思い切って捨てよう。あの娘なら、「いいよ」と笑って許してくれるはず。

 引き出しの奥にグレーの箱があった。中には、小さな写真?がたくさん入っている。いや、これは "プリクラ" というのだった。娘と友人たちが笑顔でポーズをとっている。箱の埃を払いながらどうしようかと迷ったが、やはり写真は捨てられない。そのまましまっておくことにしよう。

 二段目の引き出しには大学ノートが数冊。表紙には「交換ノート」と書いてある。その周りにはカラーペンで花柄のマークや人物のイラストなどがちりばめられている。「アヤ」、「ポーン」、「メジロ」...と色分けしてて書いてあるのは友人たちのニックネームだろうか?

 そっとページをめくる。わが娘とはいえ人の秘密の覗き見するような気持がして、やや気が引ける。

 ほとんどが中学生どうしの他愛ないやりとりだ。クラブ活動の様子、授業中の教師の何気ない一言への感想、友人関係の悩みの吐露、励まし、アドバイス...。中学二年生の夏休み前にはかなり大きな "事件" があったようだ。隠語めいた言葉の羅列で詳細はわからなかったが、いくつかのグループ間で感情的な対立が長引いた様子が事細かに書かれている。それがやがて収束していく。それに関したやり取りがかなりのページを割いている。苦しい胸の内を綴っているのは間違いなく娘の文字だ。

 「気が付かなかった...。」

 いつも明るく、学校のことを何でも話してくれている娘だった。そう思っていた。しかし、こちらに見えていないところで大きな葛藤や悩み、心配事をたくさんかかえていたのだ。

 恋愛に関するやり取りもある。しかし、こちらも隠語やニックネーム、絵文字がたくさん使われていて、その後の展開もよくわからずじまいだった。

 家族や友人に対する不満、芸能人の話題、受験や将来への不安...。座り込んで次々と読んでいるうちに思わぬ時間を取られてしまった。まだやるべきことは残っているのに。

 タンスの中の衣類の整理、本棚の本の整理、プリント類の整理...明日からの作業予定を頭の中で整理する。

 急ぐことはない。ゆっくりやろう。そうすればまたここで娘に会える。

 この部屋にいると娘の息吹を感じる。思いを感じる。体の温かさを感じる。存在を感じる。 

 娘には娘の生きてきた証がある。親の私が知らない思いや経験や感情の澱がある。この当たり前の事実を、今改めて目にしていると叔子は思った。

 「二人で過ごした時間は私の宝物...。」

 柔らかな幸福感が全身を包み込む。頭の芯を痺れさせる強烈な眠気がまた大波のように襲ってくる。


 バイタルの数字を眺めていた医師は、横にいた看護師に「ご家族に連絡を」と言いかけて口をつぐんだ。身寄りのない患者だということをふいに思い出したからだ。梶田さんは独り暮らしで、離れて暮らす一人娘を最近事故で亡くされたらしいです、と担当看護士が辛そうに伝えてきたのは先月のことだった。

 酸素濃度を上げるよう看護師に指示したものの、指示をした当人も指示を受けた側も、単に気休めの処置に過ぎないことは言葉に出すまでもなく分かっていた。下顎呼吸は2時間ほど前から続いている。

 不安定に律動する機器の数値に気を取られている医師も看護師も、叔子の口元にかすかに笑みが浮かんでいることに気づくことはなかった。

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