早春の一人旅の思い出

 大学受験を控えた肌寒い早春の頃、一人旅に出かけた。はるか昔の話である。

 なぜそのようなことをしようと思ったのか、今となっては、はっきりと覚えていない。一年間にわたる浪人生活の末、いざ受験が目前に迫ってきて、その不安感から逃避しようと思ったのかもしれない。

 親には、受験会場の下見に行くと嘘をついて若干の交通費を出してもらい、まだ薄暗い早朝に家を出た。

 日帰りで帰ると伝えて出たものの、どこかで一泊するつもりだった。安いビジネスホテルを数軒調べて、電話番号を手帳に書き込んでおいた。家には、夜になってから、予定の列車に乗り遅れたとでも電話すればよいだろうと考えた。

 早朝の各駅停車の列車にはほとんど乗客はいなかった。

 ネクタイを緩めてだらしなく眠りこけた中年男性が一人、丸めた新聞を手に持ち、膝の上に置いている。

 濃い化粧をした年齢不詳の女性が、不自然なほどの大きな鞄を隣の座席に置き、ぼんやりと窓の外を見ている。

 車両内はがら空きなのに、ドアのそばに立ってじっと外の景色を眺めている大学生らしき青年が一人。

 ところどころ雪が残る山間を列車はゆっくりと走る。カーブのたびに身体が大きく揺すられる。

 日本海側の海近くにあるその駅に着いたのは昼前だった。ホームに降り立った途端、風の中にかすかに磯の匂いを感じる。

 "駅前通り" といっても店が数軒あるだけだった。タクシー営業所の前では運転手が暇そうな様子で煙草を燻らせていた。ちょっと見には営業しているのか、していないかのわからないような定食屋が1軒。汚れた看板の美容院の店内に明かりはついていなかった。

 あてがあるわけではない。磯の匂いのする方向にゆっくりと歩き出した。途中、古びた自動販売機で缶コーヒーを買う。

 10分ほど歩くと海が見えてきた。

 波止場にある錆びたベンチに座って缶コーヒーを飲んでいると、近くにいた老婆が話しかけてきた。自分の祖母と年齢は変わらないように見えた。

 「旅行できなすったの?」

 「はい。さっきの電車で着いたところです。」

 「電車?」

 この地域の鉄道網はまだ電化されていなかった。乗ってきたのは、ときどき重油の匂いのするディーゼル車だった。「電車」という言い方は適切ではなかった。

 「なーんにもないとこだけど、ゆっくりしていきんさい。」

 少し腰の曲がったその老婆は、ゆっくりとした動作で細い路地の方に向かっていった。

 さて、どうしよう?そろそろ昼飯時だが、食事のできそうなところが見当たらない。

 右手に海を見ながら海沿いの細い道を歩く。沖には小さな漁船らしき船が数隻、波間に浮かんで見える。しばらく行くと、ちょっとした丘のようなものが見えた。朱色の鳥居が木々の合間から見える。

 その神社の境内はきれいに手入れされていた。人の姿は見当たらない。遠くで犬の鳴き声が聞こえる。

 小さな賽銭箱が一つ。小銭を投げ入れ、軽く柏手を打つ。

 願い事は何にしようかと一瞬迷う自分がいた。この期に及んでまだ受験という現実から逃れようとしているのか。

 合格祈願をしてから、振り返って歩き出そうとして気づいた。人がいる。その人は、鳥居の手前横にある小さな手水舎の隣で、下を向いて静かに砂利を掃いている。

 軽く頭を下げて通り過ぎようとしたとき、声をかけられた。

 「ようこそお参り。」

 そう聞こえた。

 さらに歩き出そうとして、思わず振り返った。波止場で声をかけてきた老婆だ。いや、そんなはずはない。こちらは、波止場からの一本道を寄り道することなく歩いてきた。そもそも19歳の自分を、腰の曲がった老婆が速足で追い越していくとは考えられない。

 わからない。混乱した頭のまま鳥居を背にして歩き出したところまでは覚えている。その後のことはまったく記憶がない。その日、神社に立ち寄った後どこに行ったのか、どこかに泊ったのか、あるいはその日の内に家に戻ったのか。

 その春の入試で、第二志望だった大学に何とか滑り込んだ。大学ではバイトに明け暮れ、親にさんざん心配をかけながら、ようやく入り込んだ小さな機械メーカーに勤めてそろそろ20年になる。

 あの日の情景は時々鮮明に思い出すが、途中で出会った "2人" の老婆が同一人物だったのか、別人だったのかはいまだ謎である。

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