"書類の形式が整えばOK" はOK?

例の感染症のワクチン接種に行ってきた。

地元の自治体からワクチン接種券、予診票、説明書類一式が届いていたので、ざっと目を通し、予診票にあらかじめ記入しておいた。

受付で名前を告げ、接種券と予診票を出す。受付の人が、「ここにも日付と署名をお願いします」と言う。指さされたところを見ると、「医師の診察・説明を受け、接種の効果や副反応などについて理解した上で、接種を希望しますか。」と書いてある。

医師の診断も説明もまだ受けていない。だから署名はしていなかった。もちろん、事前に説明書類には目を通していたので、接種の効果も副反応も理解しているつもりだ。そもそも、接種を希望しているから、予約してここに来ている。

自分の後ろには順番待ちの人が並んでいる。一言いいたい気持ちをぐっとこらえて、署名した。

後で改めて署名させるのは二度手間ということなのだろう。わからないではないが、何か変だ。

そういえば、会社勤めをしていた時のことを思い出した。

出張旅費の精算書に "精算額" を記入する欄の下に "受領印" の欄が設けてあった。出張で自分が立て替えたお金を精算して会社から受け取る。当時は現金精算だった。この欄は、確かに精算金を受け取りましたという確認のための欄だ。

ある時、受領印を押さずに庶務担当に回したら、後で庶務の担当者がやってきて、ハンコが抜けていると言う。

「ここは、精算金を受け取ってからハンコを押すための欄じゃないの?」

「受領印がないと精算の手続きは進められません。」

「まだお金を受け取っていないのに、受領したことにするの?」

「そういう仕組みです。」

と、わけのわからないやり取りをしばらくした後、渋々 "受領印" を押した。

わかったことは、庶務の担当者が書類に書かれていることに何の疑問をもつこともなく形式的に処理しているということだった。もちろん、書面に書かれているとおり処理をすれば書類を二度やり取りしなければならないので、時間も手間もかかるという事情もわからないではない。でも何か変だ。

同じようなことは世の中にたくさんあることだろう。

世の中は書類で動いている。上の2つの例でも、後から書類を見れば、正しく処理されて形式も整っているから問題ないということになる。本来の書類の趣旨に沿って動くのではなく、書類の形式が整っていることが優先される。そういう仕組みの中で定例化された作業を淡々とこなす。だから疑問ももたない。

何か変だ、と思いつつ、"文書主義" の中で生きている自分に時々気づく。

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