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夕映えの恋 7

日曜の夜に美咲は酔っ払ってテヒョンの家にやってきた。テヒョンはもうベッドにいたから突然の来客に驚き、しかもそれが美咲だと知って脱力した。「お酒飲んだら会いたくなっちゃった〜」としなを作りベッドに寝転ぶ美咲にテヒョンは冷たい視線を向けた。

「明日用事あるって言ったろ」

テヒョンは苛立ちを隠さず吐き捨てるように言ったが、美咲はなおも上機嫌な様子で寝転びながらストールを外しコートを脱ぎ、腕を背中に回しワンピースのファスナーに手を掛けた。

「ごめーん。朝私も一緒に出るから。何時?」
「はぁ…」
「ねえ、何時に家出るの?」
「…8時過ぎ」
「あはっ。意外と早いね。でもだいじょーぶ!」

美咲はもうワンピースも脱いでしまって下着姿で「寒い寒い」と布団の中に入り身体を縮こませた。テヒョンは無表情で衣装ケースからトレーナーを抜き出しベッドへ投げる。部屋の電気を消し、美咲に背を向けるようにしてベッドに寝転がると柔らかいものが背中にぺたっとくっついた。

「あったかい」
「…」
「疲れてる?」
「明日早いから」
「そっか」

背中に感じていた温もりは背を向け真っ暗な部屋にほんのりと蛍光色の光が灯った。スマホの画面をタップする音が休みなく聞こえる。すぐ隣に寝ている人がここにはいない誰かと繋がっている、そのことにテヒョンはひどく心細い気持ちになった。自分が肉体的に遠ざけた人が精神的にも遠くに存在することに寂しさを覚え、己れの矛盾に虚しさが募った。

・・・

美咲が朝しつこくテヒョンの用事が何なのか聞いたため、テヒョンは正直に店のお客さんと千葉へ犬を見に行くのだと伝えた。但し、そのお客さんが店主の知人で店主に手伝うよう頼まれた、という嘘を付け加えた。

「へー。私も見たかったなぁ、わんちゃん。もう無理よね?」
「うん」
「じゃあ見送りに行く。今日、特に予定もないし」

テヒョンは美咲を止めることなど無理だと、無駄に抵抗するのは得策ではないと思って敦子との待ち合わせ場所に二人で向かった。そして、美咲の疑り深さはたとえそれが自分への好意に基づいているものだとしても不愉快で、鬱陶しさが心にまとわりついた。

風もない、春を感じる穏やかな朝である。あの夜敦子を見送った住宅街の中の曲がり角は朝日を浴びてキラキラ輝き、整然として美しく、優しい静寂が満ちていて、テヒョンは自分との不釣り合いさに身が縮こまる思いがした。そして急に、ただでさえ無理矢理同行させることになったただの喫茶店の店員が待ち合わせの場所に浮気を疑う恋人を連れていることを敦子がどう思うだろうかと不安になった。二度しか会っていない年上の既婚者に、自分はどうやら微かに好意を抱いているらしいと自覚すると少し動揺した。敦子を待つ一分一秒がとても長く感じられた。

約束の時間ほぼぴったりに敦子の車は到着した。そして美咲の存在に気づいた敦子の驚いたような表情は車の外からでもはっきり見てわかった。テヒョンは先ほどから抱えている苛立ちや不安を悟られないよう、至って普通に明るく挨拶した。

「おはようございます、時間ぴったりですね」
「おはよう。お友達も、一緒に?」
「いえ、彼女はちょっと。見送りに来ただけです」

全身に可愛らしさを纏う美咲とは対照的に、細身のデニムにスニーカーという出立ちの敦子はシンプルながら余裕ある大人の女性らしさがある。美咲はテヒョンの背後からぽっと顔を出して敦子に挨拶し「可愛いわんちゃん見つかればいいですね」とお愛想を言った。そして助手席のドアを閉めようとしたテヒョンに言葉をかけた。

「じゃあね亨くん。あとでワンちゃんの写真送ってね」

・・・

「可愛い子だね。彼女?」

敦子はかかっていた音楽のボリュームを少し下げ、そう切り出した。

「はい。なんか、すみません」
「ううん、全然。逆に申し訳なかったな」
「どうして?」
「本当は二人で用があったのかなって」
「いやいや、違うんです、大丈夫です。気にしないでください」

短い沈黙があった。その沈黙の中でテヒョンは敦子が次に何を言うか想像がついた。

「…さっき、亨くんって」
「はい」
「あれは…」
「僕、亨って言うんです、本当は」
「本当は?テヒョンじゃなくて?」
「テヒョンでもあるけど、亨なんです。僕、韓国人と日本人の子供だから日本では亨、韓国ではテヒョンって二つ名前があって。二十歳になって日本国籍を選んだから今はもう亨が正式な名前なんですけど、でもテヒョンの方に愛着があるというか…」
「つまり戸籍の名前は亨だけど、テヒョンを愛称みたいな感じで使ってる?」
「そうですね。父親も韓国の家族も今も昔も僕をテヒョンとしか呼ばないんで」
「お母さんは?亨?」
「はい…でも離婚して母はいないので、今は家で僕を亨と呼ぶ人はいません」

助手席のテヒョンは今にも消えそうなロウソクの炎のようにいつもの快活さを失い、まるで小さな子供のような心細さを醸し出している。敦子はチラチラとテヒョンの表情を伺いながら、子供に対してするような明るい声を出した。

「そっか。でも私はテヒョンって呼ぶね。それで覚えちゃったから。いいかな?」

ハンドルを回しながら敦子がそう言うと、テヒョンは敦子に身体ごと向け、瞳をキラキラさせてぎこちなく「はい」と笑った。

(つづく)

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