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 本が好きな人間なら、多分当たり前に同意を得られると思うが、自分が学生の頃、母親や妹は、私から本を借りるのを嫌がった。私が、これは読むべきだと思い、その本は今では思い出せないのだが、もしかしたら「きけわだつみのこえ」あたりだったかもしれない。それなのに、借りる事に対し、母や妹には、なんらかの抵抗があるように見受けられた。
 そのことに対して、質問したことがあったと思うが回答はなく、曖昧に微笑まれただけだったが、その後、かなりたってから、時効と判断した母から、事の真相を聞くことができた。なんと、「お前が本に対して異常に潔癖だったから、借りたくなかった」というのである。「すこしでも汚したら怒られると思うから、読みたくない」と。お互い、笑って話せるまで、母は、この真相すら暴露できないでいた、ということだ。
 なるほど。
 確かに、開いて伏せた本を目撃して、激昂したことがあったかも知れないが、あたりまえに、当時の自分にはあり得なかった。開き癖がつくし、どのページも均等に開く状況だからこそ、いつも新鮮に読むことができる。・・・いや、単に、汚したくなかっただけだな。

 とまあ、思い出せば、かなり神経質だったことは、その通りだ。購入した文庫本全てに、本屋でもらった紙のカバーをつけて、きちんとタイトルを書き込み、本当に大事にしていた。少しずつ増える安い文庫本は、自分の宝だった。
 しかし、それも今は昔。
 昨今もてはやされている「捨てる」という行為について、その範囲に「本」が含まれている事に、驚愕を通り越して、静かに「個性」を改めて思った自分だが、本自体は壊れやすい何かを扱うように扱わなくても大丈夫であると、いまでは理解している。
 それでも、まあ、普通に大事に扱っている。
 最近は、コミックスなどにかける透明のカバーを掛けるのが気に入っている。全てのサイズを用意し、せっせとカバーを掛ける毎日だ。中に書き込むことはしないが、付箋を貼ることは許している。何度も読むことで入る年季も、まあまあいい。

 そんな自分だが、書けない日が続くことがある。生業として書いているわけではない。趣味で書いたり、それを製本して楽しむ生活であるが、その楽しいことすらできなくなる期間というのがある。その時々で原因は違うと思うのだが、それにしても今回は長かった。昨日の吐き出しで、およそ一か月ぶりにやっと書けた状態である。
 昨日の日記では、その原因が特定できず、逃げる時は台所に逃げているという事実から、退路を断って書くことに向かった、ということで終わっているが、実は、昨日、もう一つ、自分がやっていることがあった。

 当たりまえすぎて、書くのも恥ずかしいが、青春期に読む本は、ヒトに多大なる影響を与える。とある作家の本は、母が好んで読んでいて、二十代の私も、自分の本流では無いが、その人が出す本は、ほぼすべて読むくらいには好きだった。これから白状する内容が内容なので、その作家については詳細は省くが、それくらい好きで、本も大事に扱っていた。引っ越したときに作った書庫という物置小屋に、他の大事な文庫本と一緒にきちんと並べていたのだ。
 ところが、ある事から、その作家に対し、それまでの気持ちを維持できない状況になった。ヒトによって、裏切られたと感じる対象は、それぞれであろうが、その作家のしたことは、私にとって最大級の侮蔑に値した。

 捨てよう。

 生まれて初めて、本に対してそう思った。
 侮蔑感情は、数年前にすでにあったのだが、それでも「本」の威光は凄まじく、どうしていいかわからない時期を過ごしてきたのだ。ただ、こんな自分も、普通にくだらない本がある事は、すでに理解していた。雑誌のように読み捨てていい「本」がある時代なんだ、と。
それでも、その作者の本にまで、その感覚はなかなか及ばなかった。
 でも。
 人生は、有限なのだ。
 資料としてとっておく気もない。
 この作者に対し、どのように接し、どのように感じ、どのようにそれを自分の中で処理したかの記憶さえあれば、もうそれでいい。

 そう思ったのが、三ヶ月前。
 自分は、その人の本をレジ袋に入れ、書庫から外に持ち出した。庭には、木でできた長椅子様の台があり、その上にビニルの敷物を敷いて座ったりしていたのだが、その覆いが風で飛ぶので困っていた。石などで固定してもすぐに捲れ上がる。ところが、何気にその上にレジ袋を置いたところ、見事にピタッと固定できることに気付いた。本の重さに改めて驚く。
 そう。
 自分は、作家の最大級の裏切りに、その本を重しとして雨ざらしにするという暴挙で応えたのだ。

続く

現在、「自分事典」を作成中です。生きるのに役立つ本にしたいと思っています。サポートはそのための費用に充てたいと思います。よろしくお願いいたします。