(第1話)独立から心機一転。鬱々とした日本での生活を飛び出し上海へ 発展を続ける中国での刺激的な日々

2002年、大学の建築学科を卒業し京都で建築士としてのキャリアをスタートした後、一通りの仕事を覚えると独立して小さな設計事務所を構えた。就職氷河期のころから数年がたち少し景気もマシになってきたところでリーマンショックがあり、駆け出しの建築士が一人食べていけるだけの仕事もなかった

30歳目前の2010年。そうした日々に鬱々としていた私は、状況を打開しようと小さな求人広告でみつけた上海の設計事務所に飛び込んだ。当時の中国は近代的な建物がどんどん建設されていて、所変われば品変わるとでも言うかのように日本では必要とされていなかった建築士という職種が猛烈に求められていた。

再びサラリーマンとなった私の仕事は忙しかった。給与は毎年増え、仲間も増え、友人も増え、そして中国という国が発展していくエネルギーに熱狂した。

設計事務所は典型的な受注産業であり景気に左右されやすく安定的な経営が難しいと考えていた私は、当時のボスと意気投合し、これらの問題を改善することが主業務となった。私は可視化しづらいデザイン業務の合理化や個人の裁量に依存しすぎていた営業のチーム化を推し進めた。

職人的なデザイナーの集まりだった事務所は急速な組織化が進み、人員も増えて一人あたりの売上・利益が大幅にアップした。また売上見込みの可視化が進み経営の見通しがたつようになると、設計者の立場で得たノウハウを元に、設計業務に変わる新規事業の開発も進めていた。

ただ、拡大を急いだ組織はちょっとした事をきっかけに瓦解し、私を含めて半分以上が会社を去っていった。そのまま上海に残って設計事務所を開くことも考えたが、設計士からの脱却をテーマに仕事をしてきた私には、すでにデザイナーとしての熱意は残っていなかった。
開発や企画への舵きりを模索していたが、当時の私に何か具体的な案があるわけではなかった。

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△左:上海で働いていたオフィスは工場を改修した創意園と呼ばれるクリエイティブオフィス。右:当時の陸家嘴。今みるとここからさらに高いビルが乱立するなんて当時は考えつかなかった。



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