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映画マリオが改めて示した「子供向け」ということ【ネタバレなしレビュー】

映画マリオのレビューです。
基本的にネタバレはありませんが内容について何も言及していないわけではないので、それすらも嫌な人は視聴を終えてから読むことをお勧めします。

率直な感想として、最高だったと思います。
これは、僕にとって過去最高に面白い映画だったという意味ではありません。
「マリオの映画」というものの在り方としてこれ以上ないと考えている。
という意味です。

僕個人の感性として受け取った映画マリオについてはこの記事の主題じゃないので深掘りしません。
(最後にちょっとだけ書いてます)

書きたいのは、掘り下げたいのは、
「マリオの映画」としてこれで最高だったな。
と思ったことについてです。

子供を楽しませるということ

今回の映画マリオは、ゲームのマリオと同様、明確に子供がメインターゲットであったといえます。
それはどういう部分からそう言えると考えられるのか?
それは子供に楽しんでもらうためにはどうするか?を考えることであり、それについて考えるにあたって、やはり子供というものがどういうものかを理解する必要があります。

僕の子育て経験から、子供というものは
・説明を聞かない。
・発言を理解していない。
・文脈や伏線を理解できない。
・動きと表情から感情は読み取っている。
・動きや音声の純粋な面白さに対する感度が大人の3000倍。
・理解できないものは10秒も見てくれない。
という特徴があるように思います。

彼らは画面がろくに動かない会話だけのシーンがあると10秒以内に「もう帰ろう」と言う生き物であり、
反面、マリオが崖から落ちるだけでケラケラ笑う生き物であります。
彼らを楽しませるために、彼らの感情を刺激するために提供すべきなのは、
言葉ではなく動きと音である必要があるのです。
こういった子供の世界から映画マリオを見たと考えてみると、大人の僕たちが見る映画マリオとは全然違ったものに見えるはずです。

伝わらない言葉

僕たち大人は映画を鑑賞する時、台詞回しのユーモアや、
発言と行動から解釈できる各登場キャラクターの意図や散りばめられた伏線を楽しむことができます。
笑顔と優しさの裏では実は…とか、最初は強気な態度だったあいつは本当は…とか、そういったやつですね。
当然ですが、子供たちは言葉や文章による意味の伝達を十分に習熟していないためにそういったものは理解できませんので、物語上の重要な熱いシーンだとしても、それを表現するための手法が「言葉」だとすると伝わりません…真剣な顔で種明かしのキーとなる独白などをしているシーンなどをイメージしてもらえればと思いますが、そういう場面は子供にとっては「真剣」であることは理解できても「何を伝えたいのか」はあまり理解できないという感じ…です。

そのため、「諦めの悪い男が諦めてしまいそうになるほど辛い気持ちになっている」というシーンを子供たちに伝えるには、
"昔からそいつのことを知っている腐れ縁の男が「あいつがそんなに簡単に諦めるわけがないんだ」と告げる"
のようなシーンで間接的に表現してもダメで、この場合は
"何度も訪れる難しい状況(私生活でもうまくいかずピーチ姫との出会いでも苦戦するなど)に何度も何度も失敗しながらそれでも諦めないシーンをたっぷりと時間を使ってキャラクターを動かして動かしてこれでもかというほど見せておいてから、最後の最後に挫けそうになるくらいボロボロになってしまい苦悶の表情を浮かべてうなだれる"
くらいまでやって、初めて子供たちの中に彼の辛い気持ちが伝わるのです。

今回の映画マリオは、そうして子供たちにも伝わる「動きによる表現」をしっかり作り上げていました。

数少ない過去の体験

僕たち大人は「今までに見たことがない」というところに非常に価値を置きがちです。
大人になる過程で、今までたくさんの事を楽しんできた代償である「飽き」が強く価値観に影響を与えているからです。
"あまり現状の人生がうまくいってないしがない青年が、ある日異世界に飛ばされ、紆余曲折ありながらもそこで大活躍して一躍ヒーローになる"
のようなありふれた物語に飽きている人は多い。
ですが、ほとんどの子供たちにはそれは"今日初めてみる物語"である可能性は高い。子供たちの感情を動かすためであれば、物語がありきたりであることを恐れることはありません。

また、僕たち大人は過去の体験という積み上げから、登場人物に共感したり、逆に拒否感を覚えたりします。

"好きな人を自然と目で追ってしまう" という少女に共感する大人は多いと思います。しかしこれは子供の共感は得られない伝わらない表現です。
"好きな人の名前を連呼する変な歌を熱唱する" という怪物に共感する大人はあまり多くなく、むしろちょっと「見てて恥ずかしい…」という拒否感を覚える人もいるでしょう。現実にはそんなことする人はほぼいないですからね。
しかし子供たちにとってはシンプルに相手が好きであることが伝わり、ノリの良さが気に入ってその日の夜の食卓で口づさんだりします。

"人間のように振る舞うキノコが生活する世界"という多くの大人にとっては「まあ現実にはありえないよね」というちょっと冷めた目で見てしまいがちな世界観も、子供にとっては "たくさんの高校生が集まる教室" と差はなく、何かを伝えるための障害とはなりません。
脈絡なく突然ゲームのステージのような場所が現れても、レインボーロードがあっても、そこに引っかかりもないのですんなり受け入れてくれます。
現実にはありえないということを頭で理解していないわけではないにせよ、体に染み付いた現実の濃度によって、違和感が強いのが大人で、違和感が少ないのが子供ですから。
(もちろん人によります)

今回の映画マリオは、そうして子供たちに存在しない前提や常識を使わないことを徹底した上で、大人の冷めた目を恐れることなく思い切った表現していました。

まとめ

マリオの映画を視聴した上でここまで読んでいただけた方なら、
それぞれどのシーンのことを言っているのかわかっていただけるかと思います。
このようにして映画マリオは、観客の感情を動かすために、子供でもわかる表現だけを使って手を尽くした映画でした。

トレーラーを見た時に感じた「これはうちの子供たちにも安心して楽しんでもらえる」という印象のまま、「子供たちも楽しんでくれたみたいでよかった」と家族で見終えることができた体験を、制作者の皆さんへの感謝としてお伝えしたいと思います。

ここまでタイトルに則って映画マリオがいかに子供が楽しめる作りであったかということを書いてきましたが、「マリオの映画として最高だった」ということの要因として、マリオが登場するゲームのギミックや小ネタなど様々な原作リスペクトを表現に盛り込んでくれていたことや、大人が見ても楽しいユーモアに溢れる動きや演出ばかりだったことも言っておきたいです。
その辺りを細かく書いてしまうとネタバレになるので、見てない方はぜひ楽しんできていただければと思います。

以上。

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