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書籍【テクノロジーが予測する未来】読了


https://booklog.jp/users/ogawakoichi/archives/1/B09YQVS5KV

◎タイトル:テクノロジーが予測する未来
◎著者: 伊藤穣一
◎出版社:SB新書


「テクノロジーの急激な進化によって我々の生活はどう変わるのか?」に尽きる。生き方そのものが変化する。
仕事は「組織型」から「プロジェクト型」に変わっていくという。
私自身は会社に所属しての人生が長いが、周辺では番組制作・映画制作などとの関わりも多かったために、プロジェクト単位でスタッフが招集され、終了すれば解散して次の現場に行くというのに違和感はない。
しかし「組織体」が全く関与しない状態で、全員が完全プロジェクト毎の集団になった際に、どうなっていくのだろうとは思ってしまう。
想像力が働かないのは、私自身の今までの固定観念があるからだと思う。
前述の通り、今までも「プロジェクト型」は存在していた。
しかし、映画も番組制作も、大資本の会社が前提にあって、その会社のプロデューサーが企画単位でスタッフを集めるというイメージだ。
映画も番組も制作するのには、非常にお金がかかる。
公開にあたって、内容についての責任も生じてしまう。
そういう意味で「何かあったら誰が責任をとるのか」については、スタッフで誰が参加しようが、プロデューサーの所属会社が全責任を負わざるを得ないという仕組みになっている。
このプロデューサーもあくまでも大資本会社のイチ会社員であるというだけなので、個人として全ての責任を負う必要はないし、事実、背負いきれない。
著作権的には「発意と責任」と言うのだが、この部分は今の映画や番組では明確なので、スタッフも企画単位で参加するが、お金もきちんとプロデューサーの所属会社から支払われるし、自分の役割以上の責任を負う必要はない。
そのためにプロジェクト単位での集合体であっても、集まった人たちは、「擬似的な組織型」として機能する。
私はこちらの方がしっくりする。
何か問題があれば判断するのはプロデューサーだし、そういう意味では責任を持つべきプロデューサーを頂点としたピラミッド組織になっているのだ。
この機能がなくなって、完全に個人の参加型となった場合に、事実としてプロジェクトが成立するのかが、何となくイメージできないのだ。
現実的には「Linux」だって機能している訳だし、「ビットコイン」だって成立している。
それも頭では理解しているのだが、あまりにもレアケースな気がしてしまう。
もちろん、今後益々民主化は進むし、分散化が進むのも間違いないのだが、全てがその形式で成り立つのかが怪しいと思ってしまう。
こう言っている時点で、新しい時代に対応できていない、古い人間という烙印を押される訳であるが、どうにも腹落ち出来ない自分が存在しているのも事実だ。
私はこのように、本書の中でも、しっくりきた部分と、違和感があった部分とが混在してしまっている。
様々な意見があってよいと思うし、ある最新テクノロジーについて、立場を変えて別の角度から検証することも必要なことだろう。
本書の通り、完全自立分散型のDAOのような組織(共同体?)は、絶対に増えていくはずなのだ。
映画制作であってもピラミッド組織をイメージするような、私みたいな古い人間の思考ではなく、新しい形の映画制作が出来上がっていくのだろうと思う。
この辺は新しい生き方にも通じるところがある。
自分で納得がいかないなら、小さなところから分散型組織を始めて試してみてもよいかもしれない。
それが一番の近道のような気がするのだ。
事実サークル活動だって世の中には溢れている訳だし、自分でも小さなサークルに所属して、すでに20年くらい活動している実績もある。
それがテクノロジーを使ってやりやすくなっていくのであれば、それは素晴らしいことだ。
まずは否定せずに、受け入れてみることも大事なのだろう。
そんな違和感があった部分も含めつつ、「人々の情熱が資産になる」という章は、自分的にはしっくりきた。
NFTは確かに一時の流行と思われているかもしれないが、今後あらゆる物事がデジタル化されていく中で「オリジナル問題」は避けて通れないと思う。
作品を作るというのは、それだけで大きなモチベーションであるし、言い換えれば情熱がなければそもそも作品作りなんてできない。
ほんの少数かもしれないが、金儲けのために作品作りをしている人が存在しているのも事実だが、それだって大きく儲けようと思っている訳ではなく、その利益で次の創作の資金にすることが基本的な考え方なのだから、健全ではないだろうか。
創作者の情熱は、応援する側の情熱と重なって価値を生み、創作者が正当な評価と金銭的な報酬を得ることは正しいことだと思うのだ。
本書を読みながらも色々と考えてしまったのであるが、今後益々生成AIが、様々な作品を自動的に無尽蔵に生み出していくのだろう。
計算機が自動的に生み出したものも、人間の好みを分析して出された答えな訳だから、そこそこクオリティも高いものであるだろうし、大半の作品は程良く感動できたりもするのだろう。
しかし、間違いなく人間はそれだけでは決して満足しないと思うのだ。
この感情を、情熱というのか、衝動というのは分からないが、生成AIの作品もある程度は良いとしても、なぜかそこ止まりの限界があるように感じる。
そんな何か物足りなさを感じていると、きっと飛び抜けた才能の人が計算外のさらにとんでもないものを生み出して、人々の感動をかっさらって行くような気がしてしょうがない。
大半の人間の能力はAIや機械には及ばないはずであるが、ある天才は人々を感動させることにものすごく長けていて、その人の活躍が世界を席巻していくのではないかとさえ思うのだ。
もしかするとアナログな作品に回帰することも十分にあり得る。
デジタル上で、NFTという技術を使って「唯一」を証明したとしても、アナログな「生原稿」だったり「絵画の現物」は間違いなく世界に1つであり、その不便さが逆に価値を高める気もするのだ。
NFTは確かに便利で、「唯一」でありながら「世界に1,000個限定」などとすることも可能だ。
どれがよくて、どれが悪いということではなく、それぞれの特徴によって、結局は使い分けされていくのだろうと思う。
その中で「価値」について、どういう指標を持つのか。
この辺は様々なトライアンドエラーを繰り返していく中で、何となく熟れていくのだろうと思うが、この時点でも様々なことを夢想してしまう。
話は戻るが、完全並列のDAOのような組織(共同体?)であっても、やはり声の大きい人はいる訳だし、意見が通りやすい人もいる訳である。
学校ではクラスメイトという一員であれば、各々は完全に並列であるはずなのに、やはりそこでも何となく仕切る側の人と、仕切られる側の人とで分かれていく。
全員が仕切る側になることもあり得ない訳であるが、少なからず「誰か決めてくれ」と思う人も一定数いる訳で、そういう点も考えていくと、DAOも一様ではなく、様々な形が出来ていくのだろうと思う。
いずれにしてもテクノロジーが世界を変えていくのは間違いない。
その時に人間たちはどう振舞うのか?
完全に新しいものに適応して生きていくのか。
それとも、結局何万年も変わらない人間の本能に従って、あまり変化なく生きていくのか。
私自身、完全適応には自信がない。
まだまだ過渡期であるのは間違いないが、私自身が適応するかどうかは別として、いずれにしても分散化の世界が加速することは間違いない。
様々な弊害も出てくるだろう。
中には上手くいかないことも出てくるだろう。
しかしながら、容赦なくテクノロジーは進化していく。
結局先が読めない以上、出たところ勝負な部分はあるのだが、まずはこういう部分を想像してみることが大切なのだと思う。
テクノロジーの知識を正しく会得して、その上で未来を想像する。
民主化を目指したインターネットは、結局GAFAMという中央集権を生み出してしまった。
DAOもビットコインもNFTもこの先どうなるのかは分からない。
我々は全てを黒白で判断出来るように出来ていない。
結局はある程度の状況を想定して備えておくくらいしかできないのである。
間違いないのは、今現在からは大変化が起こるということだけだ。
心して準備しておいて、いざという時に対応できるようにしておきたい。
(2023/11/18土)


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