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Ogen/blik Vol.3 出品者インタビュー第四回:福島諭(前編)

6月30日に開催されましたOgen/blik vol.3にお越しいただいた皆様、ありがとうございました!出品者のインタビュー、コンサートのアフタートークの書き起こしなどを引き続き、掲載していきます。さて、第四回インタビューは作曲家の福島諭さんです。コンサート後、ということで振り返りなども含めて、福島さんのお話をどうぞ。

福島諭プロフィール
1977年新潟生まれ。IAMAS修了。作曲家。これまでコンピュータ処理と演奏者との対話的な関係によって成立する作曲作品を発表。Mimiz、gpのメンバー。濱地潤一氏との交換作曲作品《変容の対象》は現在も作曲中。G.F.G.S.LabelよりCD「室内楽2011-2015」をリリース。賞歴に第十八回文化庁メディア芸術祭「アート部門」優秀賞等。作曲を三輪眞弘氏に師事。現在日本電子音楽協会理事。

(聞き手:牛島安希子)


<不在の在について>

ー先日はお疲れ様でした。まずは今回のOgen/blik vol.3の全体的な印象を伺えますか。

当日に他の出演者の方の表現に触れるまでは、どのような公演になるのか分からない部分も確かにありました。結果から言えば、多種多様な価値観によってそれぞれ実直に深めてこられたものが並んでおり、また、不思議な相関関係がみられたのも印象的でした。少し思い出してみても、作曲/即興、ヴァイオリンの演奏/発音、映像の丸枠/四角の枠それぞれの投影方法の効果等々、切り出せばまだまだありそうです。
こういう作品における価値がひとつではなく、各領域で深められはじめていることが、とても今日的だと感じるとともに、こういう種類の公演がやがてもっと意識的に美学や価値について並列し、高め合うような場というのもあり得るのではないかと考えるようになっています。

写真:2019年6月30日に開催されたOgen/blik vol.3より


ーそれぞれ異なるアプローチの作品を並べることで気づくことがありましたね。Ogen/blik vol.3 で発表された作品『一二三松風』についてのお話をお聞かせください。まずは始まりのサイン波によるドローンの強度が印象的でしたよね。

ありがとうございます。サイン波のドローン部分は映像とのバランスで今回はああなりましたが、再演時はちょっと変わるかもしれません。同質の19種類の音が周期を変えて反復しているだけの部分でした。冒頭3分では短いのかも、本当はもっと延々やりたいですけどね。

最近僕が主に関心を持っていることは "不在の中に宿るもの" そのものです。それ自体が美しいとかどうだとかいう話の前に、僕達がある種の表現として受け止め感じているものは、いずれも何かの要素の不在を抱えているのではないかと考えるようになっているのです。写真は動きませんから、そこには時間はないはずです。一方で音楽に時間はありますが、視覚的な要素はありません。でもここへきて、果たしてそうだろうか、とも考えてしまいます。僕達は写真に何かしら時間性を感じる感性を持っているのではないでしょうか。また、音楽自体に視覚的な要素を感じる瞬間は無いでしょうか。
もともと僕は子供の頃にシンセサイザーの音色作りに夢中になっていた時期があります。音色の変化にはっとして心が動く時というのは、つまり美しい音が訪れる感動は、さっきまでそこにあった音が消えて無くなったという事も同時に内包していると思うわけです。


ーほとんどの作品は何かの表象と言えますが、それはそこにないものを想像させる表現が含まれますよね。
実際に音が鳴って消えた後の"不在"の感覚、良寛の風の音から波を想像するという話は、写真の例とは別の"不在"だと感じました。こちらは「そこに実際にないから想像力が働く」というお話ですよね?この"不在"のこだわりから感じたのは、ある種の西洋芸術音楽の考え方、”言いたいことを十全に言い尽くしてこそ在るべき芸術音楽”、を意識されている感覚なのかと・・・。

仰るとおり、十全と語り尽くすことはできないタイプの音楽というのも事実ですかね。良寛和尚の話で言うと、「良寛和尚」自身がもうここにはいない人でありながら、「良寛和尚」について考えている僕らがいること自体がもう不在を扱っていることになるなぁと感じています。

ー 人に関していえば、確かに亡くなった方の方が語られやすいということはありますよね。

何をどう語るかという意味でも、もういない方は自ら語ることができないわけですけど、残された句や書は伝えるものも保っていたりするわけで、こういう一連の営みみたいなものがすごく興味はあるのですが、結局普通のことなんですよね。

ー何かを受け継いでいるという感覚が強いのでしょうか。

僕らもたぶんそういう一連のものの総体のひとつなんだ、という気がしています。

ーそれは仏教でいうところの"縁"など、生命を繋いでいる感覚もあるのでしょうか。

この世に見えているものは全て長い因果関係の上でそこにあるわけですし、そこにないものも表象のなかで常に生まれ消えていっているわけですよね。なんかそういう2重の世界に僕らは挟まれながらあれこれやっているんですよねぇ。

ー二重というのは、現実と表現の世界の二重?

「現実にそこにあるもの」を僕らは直接捉えてはいないのではないかと思うんです。目で見えていようがいまいが、頭の中で浮かぶものを僕らは相手にしています。つまりイメージの中で僕らは生きているけど、それは現実そのものとは違うという気がしていて。

ー自分のイメージに寄せて、現実と思いたいものを現実と思ってますよね。

 "不在の中に宿るもの"を考えていくと、人間の営みの中で芸術表現として残っている物は皆一様に何かの不在を抱えています。不在を媒体にその先の本質に近づく何かを捉えているようにも感じられます。

 良寛和尚によって詠まれた詩歌の多くは自然の素朴な在り方そのものをありのままの視点で見守っているように感じられるもののが多いのが印象的です。良寛和尚が後年に移り住んだ五合庵にて、僕も実際に足を運んだ際には風の音を面白く聴きました。まるでさざ波のようだった、と父に語ったところ、良寛和尚もその松風の音に(故郷の)波の音をみたという体験を詠んだものがあると教えてくれました。これは個人的には実に興味深い体験ではありますが、同時にあらゆる面から"不在の中に宿るもの"を感じさせる要素を持っていると感じています。

 今回は音響的には19平均律に調律された電子音と尺八のリアルタイム処理とを用いた作品となり、映像は五合庵周辺の写真(静止画)2枚のRGBの数値比較のみを主に使用した処理で徐々に拡大していくだけのものを使用しました。
 19平均律と12平均律はオクターブ以外は全く同じ音を持ちません。また、音も映像もそれぞれ別の思想で構築されている物でした。人間の領域とそれ以外の領域を明確な接点を持たせないまま並置させています。かなり乱暴な扱いに思われるかもしれませんが、そこにどう不在が宿るかを考えています。今回はまずここからスタートしてみる必要性は感じていましたし、それがひとつのモチベーションにもなりました。初演は終えましたが、これらの要素の関係性を探る作業はもう少し続けます。

写真:福島諭作曲『一二三松風』(2019)より


<"変化"について>

ー音楽を始められたきっかけなどはありますか。
どのような子供時代だったか、その頃の体験で、今のご自身の音楽に影響を及ぼしていることなどあれば教えてください。

 父はよく週末に自分の部屋でレコードをかけたりしていました。レコードの針の扱いなど繊細なところはほとんど子供達には触らせませんでした。それ故に、何か音に関係する大切な対象という印象は感じました。4才上の兄の影響もあり小学生低学年のころは坂本龍一やTMネットワークやB'zなど聴いていました。自分の興味はシンセサイザーで作られる未聴の音色にあったと思います。高校生の頃にYMOの「再生」があり、それを通じてイギリスのテクノムーブメントを知りました。カセットテープで録音や選曲を皆やっている時代でした。繰り返し聞くとテープは劣化し、音も変形します。記録という意味では、そういう音の無常に対する抗えない現実がつきまとってもいました。
 小学校6年の頃には我慢することができず、親にカシオのキーボードを買ってもらって(それは2つの音色を組み合わせることができるというシンプルなものでしたが)延々といじっていました。中2の冬から父の薦めもありピアノを習い始めました。当時はオールインワンシンセサイザーが出始めた頃で、EOS B500を毎日触って音作りをし、ひと月に何曲かテクノっぽいものを作る生活を続けました。公に発表はほとんどしませんでした。大学時代までおおよそそんな生活だったと思います。テクノとアメリカのミニマル・ミュージックとの接点を意識し始めたのは大学生の頃だと思います。
 体験と言えばたぶん新潟の冬景色など原風景のようなものもあるようにも思いますが、抽象的な話なのでここではやめます。もうひとつの話で言うと、シンセサイザーなどで音色を作っているときに、ある瞬間に“面白い”と思う響きに到達するのですが、その感覚は持続しないんです。変化の中にだけ美しさが宿るというか、その変化の瞬間を捉えるにはどうしたら良いのだろうとずっと考えて来た気もします。

ー" 変化の中に宿る美しさ " とは変化をしていること自体に美しさを感じているのか、または対比による美しさや、断面や接続面の美などに関わるものでしょうか。そうではなくて、何か絶対的な別の感覚があるのでしょうか。

”変化するもの”は全て”生成的なもの”だとも言えます。僕はfix(固定)したメディアの再生を本番に持ってくる気になれないのは、たとえ出てくる音の結果が同じであっても、生成され続ける処理の中に作品を置きたいという気がどうしてもしてしまうんです。破綻や、別の結果に到達するかもしれない、そういう可能性も含んだ現在性の中に身を置いて本番を迎えたいという気持ちです。そういった意味では、今回の作品は冒頭よりも中間部の破綻具合にこそ価値を置いているんですよ。(結果の善し悪しは置いておきますが。)

ーfix(固定)されたメディアに対する、ライブの感覚の中での変化なのですね。

結局、そこだけが残ってますね。今回は映像を使うという別のハードルもあったので、ちょっと折衷的になっているとは思うのですが。最後は室内楽まで持っていきたいんですよ。
室内楽は、演奏家の身体があり、それ自体が生成的ですからね。コンピュータ音楽であっても楽譜化までもっていきたいというのが本心です。室内楽が当たり前にやっている、生成的な身体性はfixedメディアには見られないと僕は感じているんです。もうそこにあるのは、時間性に関する感性だけなのだと思います。ライブエレクトロニクスも時間の関係性をしっかり生成的に扱って初めて、楽譜化(抽象化)される作品にまで高められると思っていて、それ以外は何らかのエフェクト処理という範疇に納まってしまうのではないか、というのがもうずっと感じている事なんですよ。でも分かりにくいですよね。聴取においての差は無い場合がありますから。そういう意味で、僕は奏者の演奏時の時間感覚にとても憧れをずっと持っているのだと思います。奏者の演奏の善し悪しも全て拡大的に扱える室内楽の拡張を考えた場合には、リアルタイム処理を用いたデジタル技術の援用によるコンポジションが必要だ、というのが僕のこれまでの答えです。


<ライブエレクトロニクスの扱いについて>

ー「ライブエレクトロニクスも時間の関係性をしっかり生成的に扱う」というのはどのようなイメージでしょうか。ライブで曲の構成も選択できるような方法ということでしょうか?

簡単な例では、奏者が一音間違えたら、一音間違えたなりに別の結果に変異します。僕は作品に出来るだけ不確定性は持ち込まないようにしますが、それは奏者そのものが不確定を常に含んだ掛け替えのない生命だからです。奏者が突然ステージで音を発しなくなったとしても、何らかのカラオケが背後で鳴っている作品というのとは、作品の成り立ちが違うと思っていて、分かりにくいかもしれませんが僕にとっては決定的な差異として感じられます。聴衆もそういう感覚を鋭く見わけられる人はいるはずです。


ー例えば、福島さんの2011年の作品、『florigen unit』 ですと、一小節目で演奏された音の録音が、次のGP(楽器の音が鳴っていない状態)の間に再生される。実際の演奏と重なって再生される時もあるけれども、基本的には生演奏→再生されたもの、という構成ですよね。その大枠は変わらないけれども、生演奏を録音するので、その演奏次第でコンピュータで生成されるパートはその会場のスピーカーで出た音を拾うことも含めて、fixedメディアと変わってくる、ということでよろしかったですか?

譜例:福島諭作曲『florigen unit』(2011)から


JFC作曲賞での公演(『florigen unit』が初演された)で明確になったのは、奏者の出す音の音量はわずかにリハーサルと本番では変化するわけですが、それによって、舞台上の小さなスピーカーから発せられる音量もわずかに変化します。フロリゲンユニットの場合はこのスピーカのからの音も同時にマイクは拾っていく状態にあるので、スピーカの位置や演奏の様子によって、フィードバック構造のうねりが劇的に変化します。この後の作品ではこのフィードバック構造を積極的に扱わなくはなりましたが、怖さと同時になんだか未知の領域と接触しているような表現に心が高鳴りました。


ーフィードバック構造のうねりは時間の尺にも影響を及ぼすほど、ということですか?

ハウリングを極めて遅らせているような状態です。音量が上がれば音の減衰にも影響されるので、影響はあります。ただ、あれは作品的に11分程度と決めている部分もあるので、最後のセクションでは強制的なフェードアウトがかかります。フェードしなければ演奏後何分でも音が留まるような構造を持っていますし、そういう設定にもなっています。


ー『florigen unit』の構造はまだ発展する余地があるとのことですが、それ以降のライブエレクトロニクスでの時間の生成法は何か変化がありましたか?

その後の作品ではもう少しサンプリングと変換再生の関係を明確にする方向に移っています。フィードバックは極力排除する方向になりました。サンプリングされるべき領域を用意して、それがある部分ではどのように変換されて組み込んでいくかという所の作品的な必然性をその都度、検討しています。


ー明確にするというのは、録音される素材と変換後の音響がより聴取しやすい方向に、ということでしょうか?

サンプリングされる領域は空っぽの箱のような物なのですが、箱の動きと、その箱に収まるべき音を両方向から考えて、何が行われるかを明確にしておきたいということなんです。これにより結果的には再現性の保たれる作曲作品となるはずです。そこまで行けば聴取も変わると思います。


ーサンプリングされる領域というのは音素材が演奏される部分ですよね?

例えば「patrinia yellow」の場合はクラリネットソロの作品ですが、それがサンプリングされるbuffer~領域を4つに分けておいて、中間部では4声の和音展開が出来るように構築しています。中間部でその和声を立ち上げるためには、buffer~は4つに分ける必要があり、冒頭の奏者の演奏はこの順番で演奏してもらう必要があり、、という必然の連鎖があるわけです。それらは作品個別に考えていく必要があります。


譜例:福島諭作曲『patrinia yellow』(2013)から


ーなるほど。では、再現性の確保のために不確定性はますます排除する方向に向かっている。室内楽という固定された時間軸の中で、生演奏の良さを生かしながら、"ライブエレクトロニクスで時間の関係性をしっかり生成的に扱う" ということですね。


明確ですね、そうだと思います。
だから僕の中では作曲作品=室内楽、それ以外の領域=即興と分けて活動しています。


福島諭インタビュー後編に続きます!




・聞き手 プロフィール
牛島安希子 
作曲家。愛知県立芸術大学大学院音楽研究科作曲専攻修了。ハーグ王立音楽院作曲専攻修士課程修了。室内楽作品、エレクトロアコースティック作品の制作や映像とのコラボレーションを行っている。作品はノヴェンバーミュージックフェスティバル(オランダ)、アルスムジカ音楽祭(ベルギー)など世界各地で演奏されている。第六回JFC作曲賞入選。ICMC 2013,2014 入選。MUSICA NOVA 2014入選。名古屋芸術大学非常勤講師。日本作曲家協議会、先端芸術音楽創作学会会員。https://akikoushijima.space

 

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