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親友

最近、小学校の頃からの親友に会う約束ができた。最後に彼女とあったのは高校2年生の時だから、実に7年ぶり。その間、LINEは知っていたけれど、一切連絡を取らなかった。けれど、何も言わなくても、離れていても、知らなくても、決して揺るがない信頼が、私と彼女の間にある。

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彼女は同調をしない。例えば、悩み相談や愚痴を吐く時、共感してもらえるとホッとしたり味方だと思ったりする人は多いだろう。しかし彼女は共感しない。同調しない。ただ淡々と流してくれる。「同じくらいしか生きていないんだから、アドバイスできることなんてないよ」と彼女は言う。反応が欲しい人にとっては好ましく思わないかもしれないが、私は彼女のそれがありがたかった。彼女は自分を大きく見せない。頼りにしてよと言わない。頼ることができない私にとって、「頼りにして」と親切に言われることがありがたくもプレッシャーになることがある。彼女はそれを知っていて、関係を鎖で縛ることなく、ただただ風を送ってくれる。

「言いたくなかったら言わなくていいよ、秘密も隠し事もあっていいよ、嘘だってつきたければつけばいい、キミが伝えたい時に伝えたいことを私は聴くから。」そう言われた。私も同じことを思っていた。それは「都合の良い」関係だ、全てを分かつのが・語り合うのが親友だ、という人もいるだろう。しかし、彼女に隠し事や嘘をついたことは一度もない。つこうとも思ったこともない。心から相手を信頼しているからできることだと思っている。どんな噂が起こっても、「アイツはそんなんじゃないから」とお互いに言える絆がある。

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部屋に遊びに行けば、一緒の部屋にいながら別々の本を読み、別々の世界に没頭する。たわいない時間に雑談というスパイスをかけて楽しむという器用な真似は、私たちにはできなかった。それをお互い知っていて、気を使わずにいられることがとても心地よかった。彼女にとって、私は空気。私にとって、彼女は空気。無視する存在という意味ではない、互いに当たり前のように吸っている、必要なもの。そんな気がしていた。

彼女は私と、とてもよく似ていた。好きなもの、嫌いなること、やること、やらないこと。そういった事柄が全て同じだから、というわけではない。まったく正反対のことに興味を示すことは多い。学生時代、仲のいい友達同士でクラブや部活に入ることがあるだろうが、私は彼女と別の部活に入った。クラスも同じになることが少なくて、全然知らない日常を互いに送った。学校の行き帰りも別々だった。いつでも一緒に行動したい、という安心感は大事にしていなかった。しかし根っこの部分…価値観が一緒であることを理解していて、遭遇すればいつでもすぐにありのまま振る舞える、そういう安心感を大事にしていた。

彼女とは魂が似ているのかもしれない。どこかの本で「魂の双子」という文を見たとき、私は当たり前のように彼女を思い浮かべた。

どうして私と彼女がそんな関係になったのかは、話すと長くなるから全ては語らない。ただキッカケは、幼い頃、彼女が環境に絶望していた時、知らず知らず私が救いの手を差し伸べたことらしい(あまり覚えていない)。

彼女は少し変わった子供だった。というのも、彼女の育った家庭が関係している。とても複雑で壮絶な場所。そんな家庭に暮らしていると、いやでも「何かが変わってしまう」。子供は、そういう空気にすごく敏感だ。違う環境から来たという、異質な雰囲気を、知らないうちに彼女は纏っていた。だから、クラスの子は彼女を嫌厭した。いじめになりかける出来事があった。彼女が泣いているときに、当時クラスメイトだった私は、ただただずっとそこに居た。自己肯定感が低い私にとって、世の中の人はみんなすごい人で、優劣をつけるとか避けるとか、出来なかった。だから私は彼女を一人間として、真っ直ぐ見たんだと思う。多分、私は彼女にとっての太陽になっていた。

活動的だった私に彼女は憧れ、慕ってくれた。私も彼女の素敵なところをたくさん見つけて尊敬した。私が太陽なら、彼女は月。昼と夜。そんな気がした。多分、一生のうちに会えない人もいるであろう、「本当の親友」に、私はもう会えてしまっていると思う。

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小学校の頃、将来の夢を考える授業で、初めて「小説家になりたい」という夢を持った。しかし授業で扱った“13歳のハローワーク”という本で「小説家は最後の職業」という解説があり、「確かにどこでも何になっても書けるよな、最初から目指さないほうがいいんだな。」そう思って別の夢を探しまくった。小説を書くのは社会に褒められることではないんだと思ってしまったこと、次第に勉強で忙しくなってしまったこともあり、ウインドウズのパソコンでコツコツ書いていた小説は、ある時期から止まってしまった。

しかし昨日から、物語を書きたいという欲求が止まらない。彼女からのラインで「自分の今所属している劇団の公演に来てほしい」と言われてからだ。大学の文学部を卒業して公務員になった彼女は、劇団グループに入って役者をしている。「本気でやってるわけじゃないんだ。私は、物語に関わっているのが好きなんだ」その言葉を聞いたときに、なぜか涙が出てしまった。

思い出したのは、小さい頃の私たちだった。

彼女は本が好きだった。今まで自分以上の読書家はいないだろうと自尊していた私にとって、彼女との出会いは刺激的だった。本を語れる、勧めあえる。とてもとても嬉しかった。2人とも競うように本を読み、勧めあった。次第に物語を読むだけでなく、書くようになる。互いに交換ノートでリレー小説をした。しかし彼女は書くよりも読むほうが好きなようだった。私は頭の中から文字やアイデアがあふれて止まらないタイプなので、しばらくすると1人で書き溜めるようになった。

書いて、と言われて書いたもの。書きたいと思って書いたもの。それらは全て、誰よりも先に彼女に見せた。喜んでくれた。

「キミの書く物語が好きだよ」

その言葉が本当に嬉しかった。彼女が灯してくれた始まりの火のおかげで、私はずっと文章を書いているのかもしれない。同時に、私が書いていたおかげで、彼女の心に物語の存在は少しでも色濃く刻まれたのかもしれない。

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とにかく不思議なことに、2人とも小さい頃の好きなものを大事にしているのだった。私が今、ライターとイラストレーターやっている、とラインで言ったら、「かっこいい、昔から向いていると思ってた」と返ってきた。今までの誰に言われた褒め言葉より、嬉しくて号泣してしまった。

単純に書く行為が好き・伝わりたい・役に立っている実感が欲しいという欲がある。だから、自分は自己満足・自己顕示欲・承認欲求のために書いているのかもしれないと思うこともあった。だが、根元を辿れば、彼女のために私は書きたいと思うのかもしれない。それが人のために書きたいという気持ちに繋がっているのだ。大好きな人を喜ばせたい、大好きだと思うヒトモノコトのために書きたい。

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同じことを彼女にも言いたかった。彼女は澄んだ声がよく通る、歌が上手い、とても可愛らしい。役者に、昔から向いていると思っていた。何より、物語を大切に、汲み取ることがとても上手い。

公演は来週だという。それまでに私は、彼女のために物語を書いて持っていく予定だ。どういう物語を書こうか、今日はそればっかり考えている。


生きていきます。どうしようもなくても。