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さようならって言って、別れたい

父の弟、つまり叔父とは、私が1歳の頃に初(はつ)対面した。

まだ私たち家族が東京で暮らしていたころ、長期休みの里帰りで愛知にある父方の祖父の家を訪れた時に、初めて彼と出会ったのである。叔父は結婚しておらず、妻と離婚し独り身となった祖父と一緒に暮らしていた。

父にとって叔父は弟だが、私にとって叔父は「知らない人」。人見知りな私は怖がって、父に抱かれて寝たふりをしていた。
うす目でこっそりうかがえば、叔父は少し寂しそうに笑っていた。初めてみる自分の姪に、知らんぷりを決め込まれているのである。寂しくなるのももっともだ。私は罪悪感を感じながらも素知らぬふりをして、寝返りを打つように見せかけたまま、父の胸に顔を埋めた。

その翌年、叔父は自殺した。
私が2歳、彼が25歳の頃である。

叔父との間に何も築けなかった私は、ちっとも悲しむことができなかった。
黒い服を着た大人たちがどうして肩を落としているのか理解しようと、小さな頭を必死で回しながら、行儀よくお経を聞いていた。抑揚ばかり酷く、意味のわからない変な歌だと思っていた。

父の顔は、終始俯いていてよくわからなかった。

4歳になり、東京から愛知に引っ越した。祖父の家から少し離れた場所に一軒家を建て、私たち家族は新生活を始めた。祖父の家は小さく、姉と弟を含めた5人家族で移り住むには狭すぎたのだ。
虫取りや釣りが好きな祖父と私は意気投合し、きょうだいの中で一番可愛がられ、よく遊んでもらっていた。

しかし私が中学に上がる前、祖父は認知症になった。

ありがちなストーリーだが、突然「あんた誰や」と怪訝そうに言われた時の、身内の恐怖は酷いものである。あたたかな祖父との思い出は、一瞬にして過去のものとして凍りついた。

日中、彼はただぼんやりと縁側で陽を浴びていた。人の形をした抜け殻のようだった。夕方から夜に徘徊し、行方知らずで警察沙汰になるのは茶飯事。風呂も入らず臭かった。

「一緒に住もう」と何度言っても、それだけは極端に嫌がる。決して家を離れて暮らそうとはしなかった。大工である祖父は、若い頃、自分の家を全て自分で建てた。木を組み、壁を塗り、瓦を貼り。だから愛着があるのだろう。自殺した自分の息子(叔父)と暮らしていた思い出も、幼い頃の父と暮らした思い出も、祖父が家から離れたがらない理由だったに違いない。

日中はデイサービスを頼む。それ以外、朝食と夕食は、家から祖父の家までトレーで母がこさえたご飯を運ぶ。中学生になった私の役割だ。まだ認知症になる前の祖父が私を一番可愛がっており、私も祖父のことが大好きだったから、この役割はお前にぴったりだろうと家族会議で決まったのである。

「ここに置いておくよ」と声をかければ、俯いていた祖父は私を淀んだ目で見あげた。しかし視線はいつも私を素通りして、どこか遠くを見つめていた。心ここに在らずというか、祖父の内側に常に流れている時間は、叔父や父と暮らした過去の時間に違いなかった。無視されているような、話の通じない宇宙人を前にしているような、奇妙な気持ちになる。

祖父はしっかりと私の方を見つめているのだ、正確には私を通り越しているのだが。ひたすら噛み合わない視線や、老人特有のツンとした臭いが、とても気持ち悪かった。怖かった。“誰かわからなかった”。思春期の私は耐えられず、次第にそっけない態度でトレーを置くようになり、祖父に近づくことが億劫になった。ご飯を運ぶ時以外は祖父のことを忘れた。嫌だった。気味が悪かった。

祖父は若い頃からずっと煙草を吸っていた。認知症で家にひとりの時、まだ吸っていたかはわからない。健康診断で肺がんが発見された。老衰もあって入院が必要になり、遠い山の上にある大病院に入った。お見舞いに行ったら、枯れ木のように痩せこけた祖父が眠る同じ病室には、似たような老人が、たくさん横たわっていた。

そうか。ここが「姥捨山」か。
驚くほど淡々とした気持ちで思った。

ご飯を運ぶ役割から解放され、ますます祖父と距離が置かれると、気持ちも一緒に離れていった。ちょうどその頃、部活が楽しくてしょうがなくなり、生徒会に入って文化祭の準備に勤しむようにもなっていた。私が青春をキラキラ謳歌していたある日、

祖父は、一人ぼっちで死んだ。

気づいたら、死んでいた。

部活の練習を終えた心地よい疲労感のまま、いつも通り学校から帰った時、神妙な顔で電話を持った母が「おじいちゃん…亡くなったって」と言ったのを、私はどんな顔で聞いていたか、さっぱりわからない。

乾いた木魚の音が、私の心の軽さにそっくりだった。肉と髪が灼かれるにおいは、臭かった祖父よりマシだとすら、思いかけた。

唐突な祖父の死は確かに悲しく、後からじわじわと思い出とともに涙が溢れ、嗚咽した。しかし、突然“いつも通り”を奪っていった「死」というものへの恐怖が、祖父がいない悲しみを上回っていった。

泣きながら骨壷を睨みつけた私の視線は、祖父の骨を通り越して、ただ過去を攫っていった「死」へ向かっていた。


知らないあいだに親しい立場の人って、案外、よく死んでしまう。
そしてその悲しみを、とても淡々と理解してしまうことがある。

いわゆる核家族でいると、一緒に暮らす両親以外の血族は、クラスで仲のよくない同級生よりも存在感がない。仲が良くなくても、同級生は毎朝、顔をあわせるからだ。
遠い場所にいる親しい人は、訃報の知らせが電話で届いて初めて、葬式場で顔をあわせる。さめざめと泣く周囲を見て、ああ大事な関係の人が亡くなったんだ、と理解する。自分も神妙な顔をしてみる。本人ではない別の人から「あいつはこういうやつだった」と聞いて初めて興味を持ち、骨壷の“彼”に向かって 「生きているうちに話してみたかったよ」なんて思ったりすることもある。毎回のお参りはルーティンワーク。故人に対して思い入れを持てない自分、パフォーマンスのようだと罪悪感を抱きながら、墓石を一生懸命こすってみる。

思い出を築くことをしてこなかった、もしくは、途中で気持ちを向けることをやめてしまったら、こんなにも人は非情になるのか。

悲しむ気持ちすら、故人がいないことではなく情を持てなかった自分に対する悲しみで、まるで悪魔のようである。

葬式で泣いていた親族は、故人が灼かれているのを待つ間に、火葬場のどこか一室でご飯を食べる時がある。出されるのは助六寿司。「おにぎりは温かいほうがいいのに、あぶらげの冷たい米がうまいんだよな」とか関係ないことを言ってみたり、「あいつは昔、こうだったよなあ」とか故人の思い出に花を咲かせて人々は笑う。

どうしたらいいのかよくわからなかった。

泣き続けたほうが深く悲しみ、いとしんでいる証拠になるのではないか。いやいや、笑い話にしてあげて、存命の頃を思い懐かしむほうが、親しんでいる証拠になるのでは。


「別れかた」というものをどうしたらいいか、わからなかった。
自分の後悔ではなく、相手に気持ちをどうやって向けたらいいのか、わからなかった。


一言も交わさず、ただ彼の子供の頃のあだ名が「きんちゃん」で、「きんちゃんおじさん」って呼べばいいんだとしか知らなかった叔父の死は、泣くことも笑うことも出来ず、別れた気がしないまま、寝て起きてを繰り返し過ぎ越してしまった。

大好きだったはずなのに、認知症から疎遠にしてしまった祖父の死は、作ってしまった距離感そのまま彼が死んだことにより、私はご飯のトレーを運ぶ役割が終わった時の解放感すら引きずって、呆けたように骨を入れた。



そして今、あまりよくない家庭環境。親との関係に想いを馳せる。
怒鳴られ罵られ手をあげられることもあるが、自分でも必要以上に反発してしまうことがある。
家を飛び出してしまうことも、憎しみを抱くことも、泣くことすらせず口には出さない呪詛の言葉を浮かべることも。

それでも別れは訪れるのだ。
そして過去には確かな優しい思い出や、今ここまで生かしてくれた恩もあるのだ。

今日の苦しみが早く終われだとか、明日もまた憂鬱なことを言われるのだろうな、と布団の中で泣きながら思ったとしても、

もしかすると、「その明日」は来ないかもしれない。

先日、リビングの机の上にあった本をどけたら、一枚の紙切れが現れた。病院の診断書で、母の名が書いてあった。

大腸ガンの再発。


死のほうが、早く来てしまう。
この間は、私が学校にいる間に、父が過労で倒れた知らせが来た。

気づかない間に、親しい人に、案外早く、死は迫る。


「別れかた」というものを、どうしたらいいか、わからなかった。
このままでは後悔するだろう。確実に。


「理想の別れかた」、というものはなんなのだろう。


意地っ張りなプライドや、怖さや、よくわからない感情が渦巻いて、頭が回らない。


とりあえず、さようならって言って、別れたい。

さようなら、って言ったら、ついでに「ありがとう」も一緒にさらりと言えそうだから。

知らないまま、知らない間に、遠くで死んでいるのは辛い。

たぶん、互いに「さようなら」が言えること。それが理想の「別れかた」だと今は思う。




あなたの「理想の別れかた」、ってなんですか。




生きていきます。どうしようもなくても。