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人間40過ぎたら、あとは余生なんですよ

40歳を過ぎてくると、それまで自分の道をひたすら邁進していた人が「若い世代のために」「自分のことよりも社会に」と言い出す人が多い。

もちろん、そうではない人もいる。

私の周囲にも、登山や冒険の界隈の人で、かつては「冒険に社会性なんてない。社会と関わらない方がより美しい行為ができる」と断言していたような人物が、40歳を過ぎてしばらくした頃から「若い奴らのために」という言葉が出るようになり、ずいぶんと変わってきたもんだ、と思ったこともある。

40歳というのは、あくまでも分かりやすくするための数字であるので、20代で次世代のことを考える人もいれば、60代で考え出す人もいるだろう。が、概ね40歳くらいがその分水嶺になる気がする。

私自身の話をすれば、2012年から夏休みの100マイルアドベンチャーを始めた。夏休みに小学生と日本国内をキャンプしながら旅するものだ。私が35歳くらいの時にスタートした。

また、2019年には20代の若者たち12名を率いてカナダ北極圏600kmを踏破する冒険行を実行した。

これらは、私が自分の旅として行ってきた「極地」「歩く」「旅」というキーワードを、日本国内では小学生に、北極では20代の若者たちに、体験する場を作るためにやっている。

若者たちとの北極行の時、私は42歳だった。

大体そのくらいの年齢になってくると、それまでの経験を誰かのために活かすということに興味が出てくる。
これは、人類にインプットされた本能的なものではないかと思っている。

随分前に、シーカヤックで世界を漕ぎまわっていた八幡暁さんと話していたときに、面白い言葉を聞いた。
八幡さんは、オーストラリアから日本までを自力で漕いでくるという旅をかつて行っていた。インドネシアの奥地、外部からのアクセスが極めて乏しい土地には今でも古くからの生活を続けているような人たちもいるという。

シーカヤックでとある村に立ち寄った際、警戒する村人たちとなんとか打ち解け、村の長老に挨拶に行くと、長老が座る椅子の背後に人間の頭蓋骨がずらりと並べられている。話を聞くと、彼らは人食い人種の末裔で今ではその風習はないという。が、その頭蓋骨を指差して長老は「俺たちはもう人間は食ってないから安心しろ、これは俺の爺さんの代が食ってたやつだ」と言うが「爺さんか、結構最近だな」と八幡さんは警戒したという。
続けて長老は言った「俺たちはもう食ってないが、この海岸を進んだ先の村ではまだ食ってるから、行かない方がいいぞ。お前、食われるぞ」と。

八幡さんは、そんな旅を長年続けてきた。

あるトークイベントで、私が八幡さんと一緒に登壇した際、話の流れの中で八幡さんがこんなことを言った。

「そういう、プリミティブな生活をしている人たちの世界では、40歳過ぎたらみんなあとは余生なんですよ」

この言葉が、なぜか私の中に強く印象が残った。

次に私が出会った言葉が、100年前の極地探検家ロバート・ピアリーが残したものだ。
世界で初めて北極点に到達した人物である(到達には疑わしい点も多々あり、私は個人的にピアリーの北極点到達には懐疑的。たぶん北極点には行ってない)のだが、アメリカ人のピアリーは25年にわたって北極に通い、グリーンランドのエスキモーと交流を持ちながら、彼らの生活技術や犬ぞりの技術を駆使して北極を探検した。

長年の北極探検の後に成功した栄誉の北極点到達をまとめた著書「北極点」の中で、ピアリーはエスキモーについてこんなことを書いている。

エスキモーは老齢を恐れることはほとんどない。というのも、彼らはめったに老齢に達するほど長生きしないからだ。(中略)エスキモーが60歳を過ぎるまで生きることはまれだ。

ロバート・ピアリー「北極点」より

厳しい自然の中で、狩猟を主体に生きるエスキモーたちは、ほとんどが仕事中に死んでいた。ボートで獲物を追っているときや、氷の上を移動しているときなど、大型動物の命を獲ることは、自分の命の危険も同等にある。
八幡さんの「40過ぎたら余生」という言葉と非常に似た印象を受ける。

人類の歴史を振り返ってみれば、農耕主体の生活などここ最近の出来事であり、ほとんどの時間を狩猟採集に費やしてきたはずだ。

狩猟採集では、農耕主体よりも相対的に事故に遭う可能性ははるかに高いだろう。

40歳というのは、人生経験も豊富になってきており、子孫を残すという仕事も終わっている。狩猟の知恵も技術も成熟している頃だ。その年齢になると、若者たちに自分の経験を伝え、技術を受け渡し、知恵を授け、あとは余生の中のある日、次の事故で自分が死ぬ番が来ることを分かりながら、老齢に達することなく死んでいく。そんな暮らしを人類はずっと営んできたんだと思う。

40歳を超えたら自分が生活する「社会」を気にかけ、次の世代を生きる若者たちのために何かをしなければという気持ちは、人類としてインプットされている本能だと私は思っている。

では何をやるか?

私自身、46歳となった。自分の極地遠征をまた行いたいという気持ちもあるし、実際にまた行くだろう。
が、それと同じくらいに興味があるのが「若い世代に何ができるか」ということだ。

2000年、22歳の時から北極に通い始め、2012年頃までは日本でアルバイトをして稼いだ資金を持って北極に出かけていた。
その都度、冒険の計画を考え、実行して、無一文になって帰国する。そこから翌春にまた北極に行くためのアルバイト生活が始まる、というサイクルを10年以上繰り返した。
その後は遠征の規模も大きくなり、スポンサーをつけるようになりアルバイトのサイクルからは変化する。

そんな北極行の中で、現地の村では欧米からやってくる冒険家たちとも出会う。

「冒険家」とまでは行かなくても「冒険野郎」くらいの私と同世代の若者もたくさんいた。彼らと話すのも非常に刺激的で、どんな計画なのか、どんな装備を使っているかという表面的に見えるところから、どんなメンタリティなのか、何を目指しているのかという内面に至るまで、興味深い話をした。

そんな話の中で時々聞くのが、欧米の若い冒険者たちがすでにスポンサーをつけていたり、もしくは財団や基金のようなものから資金的な援助を受けていたり、という事実だった。

話を聞くたびに「日本にはそんな仕組みはないなぁ」と思っていた。

日本で、個人の冒険に公的な資金援助など望めない。余程、社会的に意義のある活動であるとか、研究目的とか、はっきりとしたものがあればそれなりの組織からの援助はあるだろうが、欧米の若い冒険者たちと話した印象ではそうではない。若者の挑戦に対して、社会が応援している気風を感じた。

彼らとの会話から、社会的な背景の違いを感じた私の印象だが、私は一人で手漕ぎボートで一生懸命漕いでいる感じだ。しかし、私の手漕ぎボートの横を、欧米の彼らは船に帆を張り、社会からの追い風を受けて帆走しているようなイメージを持った。

手漕ぎボートでは腕力はつく。が、如何せん遅い。日本で社会からの風が吹くのは、それなりの実績をあげたり、メディアで取り上げられて有名になったり、というその後だ。みんな、その前に辞めていく。実力はあるのに、大きな遠征の資金を集められずに断念していく人も、私はそんな人もこれまで見てきた。実績を上げる前、有名になる前に、その段階に上がるための応援の風がなかなか吹かない。

これからの私がやるべきことは、日本にも何かしらの組織を作ることだ。有志の応援団体ではなく、財団であったり、非営利団体であったり、形式はこれからであるが、きちんと「社会の中」に、その機能の一部として存在しながら、定量化できない挑戦を応援できる仕組みを作りたいと思っている。

もともと「冒険研究所」という場所はそんな構想の拠点とするべく作った場所だ。コロナで随分と停滞したが、2024年は「書店」をやりながら、仕組みづくりにも動いていこうと思っている。

それが、40過ぎた私の余生にやるべきことの一つだと思っている。


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