「桜を見る会」と芸能報道から考える、「結果スピン」の効能

共産党の田村智子議員が、11月8日に「桜を見る会」の「モラルハザード」を追求してから、多くのメディアが、このイベントの不透明さ・不可思議さについて追求を始めた。もともと国会では、兼ねてから、共産党の宮本徹議員や、立憲民主党の初鹿明博らが、本件を追求していた。

このイベントの招待人数が安倍政権になってから大きく増加し、予算も当初の3倍ほどに膨らんでいる。それはなぜか。その根拠は何か。そのようなヌルい財政ガバナンスでいいのか。こうした点が野党から繰り返し問われたが、政府の答弁は、木で鼻を括るような官僚原稿の読み上げが続いた。 

そこに、田村議員の追求が行われることによって、「与党議員の後援会活動の場になっているのではないか」という論点が明確化されることになった。実際に「桜を見る会」に参加した、具体的な議員や後援会員のブログなどを読み上げることによって、詳細にその構図を説明し、与党議員に、自分の言葉での説明を求めるようモードセッティングした。かなり巧みな質問だと思う。

ポケットマネーや政治資金から、有権者を接待したり金品を贈与すれば、公職選挙法に当たる。ここでの法理念は、「金で票を買ってはならない」ということだ。では、政権についた政党が、公費で後援会活動を行った場合ならば、違法にならないのか。もしそれが「脱法行為」として許されるのならアンフェアではないか。そんな根源的な問いだ。

 現在はさらに、政治資金規正法や公職選挙法などの疑惑も取りざたされている。「高級ホテルで5000円」「唐揚げ増量」などのインパクトあるフレーズに引っ張られがちではあるが、「政治と金」のあり方について根本から議論する重要なきっかけにしてほしいと思う。だが、ここ数年だけでも、すじこでもうちわでも口利きでも白紙の領収書でも、結局はスルーされてしまっている。政治家に、公職選挙法や政治資金規正法の改正へのインセンティブがなさすぎるという状況では、前向きな議論を期待するのもなかなか苦しい。

招待名簿を「遅滞なく破棄」しているために検証ができない状態が作られるという公文書管理・情報公開の問題や、当初は政治家の招待枠がないかのように振舞っていた「虚偽答弁」あるいは「不誠実答弁」の問題については、今や永田町の日常風景になってしまった。首相が野党の質問に対しヤジを飛ばすという態度は、ただ品位の問題ではなく、行政府の長らが国会を軽視する行為であるとして注意されなくてはならない。

 

さて、「桜を見る会」の追求が始まって一週間たったころ。芸能人の薬物報道がメデイアを賑わせた。薬物報道のあり方については、「薬物報道ガイドライン」の作成に携わったものとして、思うところが多々ある。

 他方で、この芸能報道が盛り上がったことで、政治議論などがおろそかになるのではないかという懸念も出ている。そうした懸念を述べる人の一部が、「これは政権が意図的に、メディアや人々の目をそらすために行ったものではないか」という疑念をウェブ上に書き込んだりしていた。

これについて、記者の石戸諭氏が、「陰謀論」という文言を用いて警鐘を鳴らしている。

 

 記事の趣旨はほぼ同意できる。根拠なき陰謀論は、議論リソースを無駄に消耗させてしまう。また陰謀論は、世界を単純化する思考に人々を慣れさせてしまう他、友敵図式のフィルタリングバブルを強化する。

 

※同意できない点というか、補足点は以下。おそらく皮肉を込めたであろう、「そもそも『桜を見る会』の出席者名簿すら管理できない政権で、なぜ芸能人の逮捕リストを管理できるのか」の一文は、余計であると思った。というのも、両者は同じ「管理」という言葉でくくれない。政府は公文書を「管理できない」のではなく、破棄することをもって管理としている節がある。また、ここ数年だけでも、実際上は破棄されたはずの公文書が度々存在してきた前例があることは、例えば石戸氏の古巣である毎日新聞が、「公文書クライシス」という優れた連載で明らかにしている。

 

他方で、政治問題から目を背ける「スピン」については、世界で事例はいくつもある。では日本では実際どうか。個別の事例ではわからない。ただ、メディア関係者と総理との会食が「寿司友」と批判されるように、懇意にしている記者が与党有利な「解説」をしたり、官邸で質問に当てられやすかったり、官房機密費が順調に活用されていたり、あるいは新聞業界が軽減税率については都合の良いオピニオンを流していたりするような、距離感の取り方そのものは、常に批判的検証が必要だ。 

「陰謀論」を批判する次に求められるのは、「陰謀論」に陥らずとも、メディアの報道についての批判的検証は可能だ、と共有することだろう。メディアが自発的に、ニーズに合わせて芸能スキャンダルを取り扱うことが、主権者教育の機会を失わせるとは僕も思う。だからメディア関係者は、メディア期待をめぐる政治についても、アンテナを高める必要がある。

 

僕は、「スピンか否か」という政治意図に着目するのではなく、「結果がスピン的になっていないか」という政治効果に着目するのが重要だと思っている。そして、結果的に政治ニュースの優先順位を下げるような報道のあり方を、「結果スピン」と読んでいる。 

『デジタル情報社会の未来 (岩波講座 現代 第9巻)』(岩波書店、2016)に寄稿した「『ネット社会の闇』とは何だったのかーーウェブ流言とその対処」という文章では、次のように説明した。

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先のデング熱の流言に特徴的なのは、政権批判に加えて、メディアが政権にコントロールされていると批判されている点だ。メディアを批判する文脈で拡散される流言を「メディア批判流言」としておこう。メディア批判流言の典型の一つが、この事例のように、「あるニュースがスピンコントロールのために大きく取り上げられている」というものだ。

 もちろん、報道機関が流すニュースの優先順位に対いて、懐疑的な目を向けることは重要だ。あるニュースを大きく取り上げ、他のニュースを小さく取り扱うという行為が、市民の議論に与える影響を考えれば、「結果スピン」ともいうべき事態、つまり政権やメディアに特段の意図がなくとも、結果として特定のニュースから目が背けられてしまう現象というのは生じる。だからこそ、様々な問題意識を持つ市民が、「このニュースこそ重要なのではないか」と声をあげること自体には意味がある。しかしながら、「ニュースを疑え」「メディアを疑え」という命題を掲げつつ、先の事例のように、むしろ誤った情報を自ら積極的に取得するということも起こり得る。

 リテラシーを発揮しようという身振りを示している者が、むしろ積極的に誤情報に飛びついてしまう。「リテラシーのねじれ現象」として典型的なのが、メディア批判流言の発生だといえる。

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薬物所持の容疑で逮捕された芸能人の、前日の服装や表情がどうだったのかという情報は、僕にとっては無価値で、薬物報道ガイドラインの観点からすれば有害であるとも思う。そうしたニュースが、より重要と考えるニュースからの「結果スピン」になっているではないかという視点は、メディア論の末席に携わるものとしては常に考えている。

 「陰謀論」的な立論の貧しさに対して、警鐘を鳴らすことは大事だ。他方でこうした政治的な議論においては、「問題を追及している人間の愚かしさ」をあげつらうこともまた、問題点そのものをうやむやにするような力もある点に注意も必要だ。例えば追及している人たちのうち、極端な意見の人だけに着目して嘲笑し(セレクティブエネミー)、どっちもどっちのような雰囲気となったところで、議論がおひらきになるというような仕方で。「陰謀論に問題だよね」という議論をするとき、それ自体が「結果スピン」として機能しないよう、私たちはすかさず、議題設定のあり方を意識しなくてはならない。

 「こっちの方が大事だろう」という声は、どのような報道機会にも行われる。「桜を見る会」を報じることに対しても、「くだらない」という声もあれば、「日米貿易協定こそ大事だ」という声もある。僕個人は、先に説明したような「桜を見る会」の論点は、いずれも重要であると思うし、軽視していい問題とは思わない。他方で、「問題の優先順位」については人によってばらつきがある。個別の政治だけでなく、優先順位をめぐる政治水準についても、私たちは絶えずコミュニケーションを行っている。難しいように見えるかもしれないが、少なくともメディア人は、なぜこのような報道の優先順位なのかと、ルーティンに陥らず、問い続けながら報道に取り組んでほしい。

 



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