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【歴史に学ぶエネルギー】17.ミスター・ファイブパーセント

こんにちは。エネルギー・文化研究所の前田章雄です。
「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。第一次世界大戦の直前、石油の利権を求めて現在のイラクへ進出したドイツですが、イギリスやアメリカも石油の匂いを嗅ぎつけて群がりはじめます。
 

1)ガルベンキャンの手腕が炸裂!

石油の歴史は、裏の世界史で暗躍したガルベンキャンを抜いて語ることはできません。
シェルとの合併でデタージングから高い評価を受けたガルベンキャンは、ロイヤルダッチ・シェルのオスマントルコ代表の肩書きを手にしました。しかし、これほどの肩書きでも、ガルベンキャンの野望を満足させるものでは決してありませんでした。
 ガルベンキャンがロイヤルダッチ・シェルの代表としてコンスタンチノープルに着任してから一年後、イギリスにとって好都合な事件が起きました。
ヤングターク革命です。トルコ青年党革命ともいいます。これによってスルタンは国外追放となり、新しいトルコ政府はドイツの利権を拒否したのです。長年にわたって巨額の資金を投入してきたドイツの努力が、目の前で吹っ飛んでしまった瞬間でした。
この緊迫した状況を千歳一隅のチャンスとみたイギリス政府の動きは、とても素早いものでした。すぐさま、ナショナルバンク・オブ・ターキーなる銀行を創立します。どうにかして、ドイツとトルコとの利権争いに喰らいつこうという魂胆です。イギリスと同じく、フランスも動きはじめます。
 
しかしガルベンキャンにとって、トルコ新政府の思惑は見え見えでした。
ドイツをはじめ英仏を互いに競いあわせ、利権料を吊りあげるつもりだろう。ならば、欧州諸国間の競争が熾烈になればなるほど、トルコ政府はモスールの重要性を認識してしまいます。危険な競争は、なんとしても避けなければなりません。
ガルベンキャンの必死の説得に対して、ドイツやイギリスも理解しはじめました。自国の利益を主張してすべてを失うより遥かに現実的だからです。
ガルベンキャンは、ある会社をつくります。その名もターキッシュ・ペトロリアム・カンパニー(トルコ石油)。その株主には、イギリスとドイツの銀行、ロイヤルダッチ・シェル、そして個人のガルベンキャンが名を連ねました。
 
ここで、チャーチルの荒療治がはじまります。1913年7月、チャーチルは国家石油会社構想を発表します。
戦略物資である石油を完全にイギリス支配下におく、という意思表示です。チャーチルからみれば、ロイヤルダッチ・シェルはオランダ系の外国企業でした。外国企業にペルシャを渡すわけにはいかない。そのチャーチルの目には、トルコ石油がどう映ったか。
この数年前に、ガルベンキャンはイギリスに帰化して市民権を得ていました。そのため、ナショナルバンクとガルベンキャンの分はイギリスのものとして考えられますが、シェルとドイツ銀行の合計50パーセントはどうみても外国のものでする。このバランスだけは絶対に崩しておかなければなりません。
すると驚くべきことに、チャーチルはイギリス外務省を通じて、各社の持ち株をイギリス政府にゆだねるよう勧告したのです。はっきり言って、無茶苦茶な勧告内容でした。他人の資本を俺によこせ、というカツアゲと同じ論理です。命令ともとれるこの勧告に対し、デタージングの怒りは凄まじいものでした。
 

2)ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)の誕生!

ガルベンキャンも負けてはいられません。ここで彼のタフ・ネゴシエータの血が騒ぎだします。
強力な国家がバックについているシェルやドイツ銀行は、勧告を無視することはできます。しかし、帝国と大企業のはざまで一個人が突っ張っても、すべてを失う可能性が高い。ガルベンキャンは身を削る思いで自分の株の一部をデタージングに譲り、シェルとイギリス政府が対等に交渉できるようにしたのです。
一か月も続いた会議のすえ、各国の代表はようやく合意にこぎつけました。トルコ石油の株はアングロ・ペルシャが50パーセント、ドイツ銀行とシェルが25パーセントずつ、立役者であるガルベンキャンには仲介料の形でシェルとアングロ・ペルシャから5パーセント。この5パーセントが、のちにガルベンキャンを世界有数の大富豪に押しあげ、ミスター・ファイブパーセントと呼ばれる理由となるのです。
現在の価値に換算すると、総資産1兆円以上ともいわれます。謎めいたこの億万長者は、身の危険を覚えてほとんど写真を残しておりません。世界中の豪邸に若い妾を何人もおき、医者から健康のため勧められたという意味不明の理由で、18歳の女性をつねに連れ歩いていました。ここまで好き勝手していれば、命を狙われても自業自得でしょう。彼は世界有数の美術品コレクターでもありました。
 
ここで、あの剛腕チャーチルが一気にでてきます。この騒動の翌月、イギリス政府はアングロ・ペルシャ社株の50パーセントを買い取り、国営化に踏みきったのです。1914年4月のことでした。
ここで登場したアングロ・ペルシャ社とは、極東にあったバーマ・オイル(ビルマ石油)に対してペルシャの油田利権をちらつかせてつくらせた会社です。しかも、石油掘削の現場でなかなか石油が出ず開発中止寸前に追い込まれたこともある、あの零細企業です。それが今では、イランの油田を牛耳るまでに成長していました。
 このアングロ・ペルシャ社が、のちにパパ・グルガーをはじめとする大油田をつぎつぎと発見して巨大化し、やがて国際石油メジャーのブリティッシュ・ペトロリアム(BP)になるのです。
こうしてイギリス政府はペルシャの石油利権を握ることに成功しました。イギリスの支配がおよぶ、初の石油会社が誕生した瞬間でした。
  
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。


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