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過去を戸棚にしまえない女

いま私が就いているのは、いわゆる「こつこつ手作業系」の業務だ。

別部署から送られてくる手書きの書面を、データとしてパソコンに打ち込む。最初の頃は、記入欄ひとつひとつに緊張していた。でもだんだん法則がわかってくると、いつからか、手のほうが勝手に動くようになってくる。

そうすると、脳内に余裕ができる。誰とも話さず、ただパソコンのみと向き合う私の脳内に、ほんの少しの余裕ができる。その余裕が睡魔に占領されることがある。お昼ごはんのことを考えることもある。でも今日私がここに書きたいのは、

業務中、突然フラッシュバックしてくる「過去」について、なのだ。

私はいま仕事場で、かつてのことをめっちゃ思い出す。かつて私の、居場所だったところ。そこにいた人たち。たぶん、もう、会わない人たちのことを。

かつての私は、どこにいても、自分はここにいていいのだと思いたくて必死だった。つまり根っこでは、どこにいても、自分はここにいる資格はないのだと思っていた。だから無茶を言われれば応えるのが当然だったし、それが無茶であればあるほど張りきったし、そうすることが自分は好きなのだと思っていた。

思えば、小さな嘘をたくさん吐いた。行く先々で、決して歓迎されていない場所に、何としてもしがみつかねばならない(と思っていた)から。「それ、やります!」「やりたいです!」「めっっっちゃ楽しいでっす!!」。それが本心なのか嘘なのか、判別することができなかった。

人によっては、それを「若さ」と呼ぶのかもしれない。

それらの自分の「若さ」が今、静寂の仕事場で、突然フラッシュバックするのだ。タイミングをいとわず。縦横無尽に。ひゃあ!って小さな声が出ちゃうこともある。同僚たちは、気づかないふりをしてくれる。

あの頃の、あの嘘たちは、大バレだっただろうなと思う。だって結局、胆力が持たずに脱落を繰り返してきたから。あるいは、私の無力に気づいた先方からはじき出されてきたから。ごめんなさい。恥ずかしい。消えちゃいたい。でも、その謝意を彼らに伝えるすべは、もうない。

伝えるすべがもうないから、私の脳みそは、あれらの嘘たちを「過去」にできない。過去のものとして戸棚に収めることができず、天井からむき出しでぶらさがっている。欧米の肉屋の作業場みたいに、でっかい肉のかたまりどもが無造作に吊り下げられた私の脳内。よけて歩くのもひと苦労である。

今はというと、めっきり、そういう嘘をつかなくなった。降り掛かってくるものたちを、自分はほんとうにうれしいかどうか、心のすみずみにまでちゃんと問うようになった。うれしいものを選んで享受できるようになった。不快なら、はっきりと断れるようになった。幸福度は、あの頃よりはっきりと増している。

ここからは、肉のかたまりたちを、どうするかだなあ。小さく切り刻んで、美味しく食べちゃいたいけど、私は「嘘」や「若さ」の料理法を知らない。ためしにこうして書いてみたけど、いつか、なにか、変わったりするんだろうか。(2022/02/19)

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