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『運が良いとか悪いとか』(5)

(5)

人間意識の根底にあるこうした認識の形は、
何も古代人がかつてそうであったというだけ
の話ではないし、今の人間が赤ん坊のときに
だけ経験してそれきりすっかり縁の切れてし
まう現象だという訳でもない。

そもそも人間の認識のステップが
「古代人 → 現代人」

「赤ん坊 → 大人」
でなぜパラレルなのかと言えば、どちらにお
いてもシンボル世界に対する事実世界の積み
重ねがあって
「古代人 → 現代人」
の場合は主として社会(集団)がその蓄積を
保持して歴史を形成し
「赤ん坊 → 大人」
の場合には主として親(保育者)がその蓄積
を保持して教育(教えることと支配とが未分
化な教育)を行うからだ。

シンボル世界の本質は身体生理からの飛躍と
いう意味で身体性に対する否定なので、言っ
てみれば花火のように絶えずシンボルが生じ
ているが、この否定に対するカウンターとし
ての否定(身体生理からやって来る打ち消し)
を何らかの形で取り込まない限り、それらは
蓄積もしなければ個体間で共有もされること
もない。

言語が、まさにそうした人間意識のあり方で
成り立っている。人間意識が言語そのものだ
と言うのはこのことである。言語の初めにあ
るのはシンボル思考だ。太古の人間集団で言
語によるコミュニケーションが成立する姿を
思い浮かべてみよう。

もちろんそこでは
「言語によるコミュニケーション」
以前には、言語によらないコミュニケーショ
ンが行われている。これは動物としての人間
同士が行うコミュニケーションであり、いま
でも高等とされる哺乳類と人間が言葉を介さ
ずに行っているコミュニケーション、あるい
は人間がペットに一方的に話しかけペットの
方はどれだけ理解したのかほぼ不明な(それ
で良しと思われる)コミュニケーションだ。

そこでは相手に何かを伝えようとする能力も、
こちらから相手を察していく能力も、身体性
(種として備えている身体反応の基本プラス
個体差)に依存している。二匹の犬がいて、
いま彼らのすぐ近くをかすめるように飛んで
いった鳥がいたとする。

このとき二匹の犬はほぼ同じ体験をしたと考
えられるが、たまたまこの内の一匹の方が、
まだかなり遠い所にいた時点から鳥を視野に
収めていた。だから二匹の内でもこちらの犬
が長い時間鳥の飛ぶさまを見続け、その狩り
の一部であったらしい飛翔により強い印象を
受けていた。

鳥が鮮やかな軌跡を描きながら大変なスピー
ドでこちらに近づいてきたとき、その思いが
けぬ速さにこの一匹は思わず姿勢を低くして
防御に近い姿勢を取った。タイミングとして
わずかに遅れてもう一匹もビクリとしたが、
こちらは鳥の飛翔よりも、すぐ傍らの仲間が
逃げ出すほどの警戒には至っていないのを察
して、この仲間よりはずっと早く平静に戻っ
た。

ここにあるのが高等とされる動物のコミュニ
ケーションである。先に防御的な姿勢を取っ
た一匹は単に自分を守ろうと軽い警戒態勢に
入っただけだが、この身体反応は当然近くに
仲間がいれば危険信号として察知されるそれ
であり、自分たちが捕食される可能性がある
のか、逆に相手がこちらの獲物になるのか、
もしくはどちらでもないのか、そうした判断
がなされたところで当面の身体生理反応が一
段落する。

ところが人間ではその身体生理反応に異和が、
観念が、シンボル思考が孕まれる。その対象
が敵なのか、どれほど危険か安全か、あるい
はこちらにとっての餌なのかかといった一連
の判断の内に、その判断の元になる身体生理
を否定するような非身体的なものが孕まれる。

たとえばそれは感心、感動である。ここに人
間の二人組がいてその内の一人が、思わぬ速
さですぐ近くにまで迫った鳥の飛翔に、身を
すくませながら同時に、その飛翔の鮮やかさ
に感心した。このことは、動物としての人間
にとって無意味なのではなく、むしろ完全に
身体生理の外に出てしまおうとするという意
味で非身体的な飛躍だと言える。

この
(自分の身体生理の外に出てしまおうとする)
ということは、逆に観念の方から言えば
(自分の外にある対象との一体化)
に近いものであり
(目の前の対象を敵・味方、危険・安全、餌
になる・ならない、で自然に判断する身体生
理を無化してしまうもの)
なのである。

身体生理内ではあらぬ興奮(あるべきでない
興奮)、動物本来の注意力の一時的低下、放
心であるこの感心、感動は、観念としては多

「神(のシンボル)」
だろう。

つまりわたしは、人間意識が神様を直観する
原初のひとつに
「感心、感動」
があると考えている。それは身体生理を逸脱
(にもかかわらず身体生理の内にある、とい
う意味で自己否定、自己矛盾)したシンボル
思考の産物である。

なぜその感心、感動が神なのかと言うと、身
体を介して自分の外界と関わるだけの動物な
らば決して起こり得ない
「外界、環境との一体化」
がそこで起こっているから。(註3)

見事なまでに鮮やかな鳥の飛翔に接したとき、
人間も、動物としては
(攻撃された場合の危険さ)
とか、逆に
(こちらから攻撃する際のキッカケをどこに
見出すか)
といった事柄の判断かその材料集めが出来れ
ばよいし、結果、印象の強さに応じてこの経
験が記憶されたりされなかったりするだけな
のだ。

ところが、今の時代の言葉で言うと
(何という鮮やかさか!)
とでも表現される感心の状態になったとき、
人間はもう単に
(身体生理の必要に応じて外界の個別な対象
と関わっていく)
といった生き方だけで時を過ごすことが出来
なくなってしまっている。

ここでの例は極めて鮮やかに飛んで見せた鳥
一羽の話に過ぎない、と思われようが、実は
蟻の一匹、雲の一片であれ、身体生理の必要
からいって無関心であってよい対象(の側面)
に何らかの関心を持ってしまうということ自
体が動物としての生き方からの決定的な逸脱
であり、樹木の葉っぱ一枚にでも身体的には
役に立たぬ関心を持ってしまったということ
は、潜在的に外界の一切にそうした関心を持
ちうるということなのである。

そうしてまさにその
(外界の一切が自分と無関係ではあり得ない)
という直観こそが神という観念の源だ。それ
はまた自分が非身体的に(動物として仲間や
他の生き物に見られるのと異なって)見られ
ているという感覚の元でもある。

さらにはこれが、われわれを見ている存在に
ついてわれわれが考えざるを得なくなる元で
あり、またそういう直観が身体生理を介さず
に仲間に伝えられると感じてしまう源なので
もある。

こうしてその、感動した人間の個体は何らか
の発声あるいは身ぶりをする。

※ この後に(註3)を載せる予定でしたが
  それが余りにも長くなってしまっている
  ため、次回、この註だけを掲載したいと
  思います 

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