東京の夜景
「”明子”に生まれた時点で、私の人生はこうなるってきまってたんだなあって」
多田明子は部屋の天井のシミがまるで何か人の顔のように見える、とでも言い出しそうなくらいに目を凝らしていた。このアパートの一室の家主である佐山には背を向けていたのでよく表情が分からなかった。
「名前にそんな大層な意味なんてないよ」
フォローのつもりではなく、佐山が本当に思っていることだった。
「そう思うのは何か別の問題のような気がするな。つまり名前がどうのこうのじゃなくて、君は運命のようなものを信じすぎている」
「運命なんてないことと、運命を信じることは両立するのよ」
振り返った明子は普段通りの冷めた目つきだった。
「むしろあなたは、運命みたいな考え方から逃れられない自分を必死に見ないようにしてるのよ。私は強いから。というか、こんな話がしたいんじゃなくて」
「そうかな」
「折角もう少しで泣けそうだったのに、乾いちゃった」
「泣こうとしてたのか」
それがそうではないのは、佐山には分からなかった。彼は、自分ではない他人が遠回しになにか言おうとする心理がさっぱり理解できなかった。自分はそうしてばかりなのに。
「不幸だと認識したいのよ、自分の境遇を。そうでもしないとやってられない。今日悲しまないでいつ悲しむのよ」
佐山の部屋についてから明子はこの調子で、彼の趣味であるハーブティを一口も飲まずに、窓際の丸い机にマグカップを置いたままにして、中の紅茶からは高級な香りも、湯気もすっかり出なくなってしまっていた。
「さっき会ったばかりの君にこういうことを言うのもどうかと思うが、勝手に人の部屋に入り込んでおいてその調子でしゃべり続けて、一体僕にどうしてほしいんだ」
いくら大学の同期でも、7年ぶりだぞ、と佐山は頭の中で付け加えたが、この発言は自分が彼女をある程度意識していることが伝わってしまうと思い、言葉にはしなかった。
「話すほどのことじゃない」
「俺には話せないってことか」
「返す刀で変な自意識をぶつけてこないで」
明子は実際、いやに冷静に自分と会話しているように佐山には見えた。だからさっきも口にしなかった手前、何も言えなかった。
「何か大きなことがあって、それで自暴自棄になってたわけじゃない。本当なの。どうしてこうなってるのか自分でも怪しいし。」
明子はカーテンを少しだけ開けて窓を覗き込んだ。しかし家賃5万木造アパートの1階である佐山の部屋からは、東京の夜景はおろか、見下ろせるものは一つもなかった。
あざます