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玉虫色の季節

私の中にある根源的な恐怖は「誰かの期待を自分が裏切る」ことにある。それが行き過ぎて、「期待」そのものに恐れをなしている。「期待の悪魔」がそこにいる。

それは、幾度となく期待を裏切り続けていた小学生時代のスポーツ活動に端を発するのかもしれない。バッターボックスや守備位置で。野球(やっていたのはソフトボールだが)をはじめ球技は当然ボールの行方に観客が多くの関心を集める。オフザボールの動きが大事なんて言って、それを注視するのなんて単なる逆張りだと、思う。特に野球(ソフトボール)は、ゆったりと流れる試合時間の中で、殊更にワンプレーの注目度は高い。しかも義務的なプレーもかなり多いのが特徴で(犠牲バントって非常に特殊な概念だと思うし、守備なんて完全なDutyである)、”期待”を”裏切る”なんてお手の物である。G.G佐藤なんてそれで引退したようなもので、プロの野球選手をワンプレーで引退に追い込むのだから恐ろしい。駒野は擁護されていたが、G.G佐藤をあの時擁護した人は私の観測範囲には見当たらなかった。言ってしまえばあれは同じ「大舞台で敗北を決定付けたエラー」だったのに。


当時の私にとって、身近なスポーツだったとは思う。野球(ソフトボール)で出来た友人との縁も明らかに濃い。だが、やはり上記の理由で、てんでダメだった私にトラウマ級の心的外傷を付けるには、4年間のクラブ活動は十分すぎる程、長かった。

去年、それこそ当時一緒に野球(ソフトボール)をしていた幼馴染の結婚式から、別の幼馴染と帰宅中にこの話になった時、彼は私の話に共感した。そのことは、私をひどく驚かせた。そんなものとは無縁の人物だと思い込んでいたからだ。そう、思い返せば、私が勝手に思い込んでいたのだ。

彼は中学に入っても野球を続けていたし、運動神経は当然よく、足も速く、みんなからの”期待”に軽やかに応えて見せるその姿をみて当時私が感じていた感情は、幼馴染ながら憧れに近かった。彼はショートで私はセカンド、彼は1番バッターで僕は9番バッター。彼はヒットメーカーで、僕はバントのスペシャリストだった。

そんな彼が僕の話に共感し、似たような感情を当時感じていたというのだから、当然こちらの立場としては驚きである。底の底から見つめる僕から見たらスーパースターでも、当然のように上には上がいるし、上を見てそう感じていたとしたら特に不思議でもないのだが、なんだか世知辛いなと思ったのは、あとになってからである。その時の僕は素直に、同じ気持ちを抱えてプレーしていた人がチーム内にいたことが単純に嬉しかったのだ。

孤独を感じていたのかもしれない。あれを苦い思い出として認識しているのは僕だけで、いつほかのみんなが楽しい思い出として話し始めるのだろうと思うと怖かったが、理由はどうあれ、そうでもないらしかったからだ。


これは非常に、非常に驕った考えかもしれないが、まったく違う側面から、おそらく彼にとって私は、それこそ軽やかで、しなやかに、こなしきる人間として見られていたのではないか、と思っていた。実はこれは高校生くらいの時からそう思っていた。彼は中3の頃、理由は知る由もないがふさぎ込んでいて、私から見れば、半ば自暴自棄になっていた。卒業後、クラスで焼肉を食べに行くという話になった時、同じクラスだった彼が行かないといったのを私が説得した記憶がある。

何がしんどかったのかは多分聞かなかったが、それは多分彼の勘違いであると、当時の無知な私は勝手に断定して、無理やりに引っ張り出した。その結果どうなったかもまるっきり覚えていない。その一部始終が、うっすらこうやって、この粒度で記憶として存在している程度の事だ。この程度の事なのだが、なぜか完全に忘れることがない。

恐らくそれは当時の私が感じていた違和感だろう。「私の憧れの存在である彼が、どうしてこんなにも自信がないのか」という違和感である。自信のなさ(=自身のなさ)、思春期特有の受け身でうじうじとしたナードな雰囲気が、よもや私からではなく彼から発せられているなんて、と思ったのだろう。そうでなければここまで、ここに記そうと思うわけもない。

何度も繰り返すが、その当時の彼のその様子が、何によるものなのかは全く知らないし、見当もつかない。自信がなかったかどうかなんてわかるはずもない。そして、それを知ろうとも当然思っていない。言いたいのは、人は複雑だということである。

誰かが当たり前にできることが、自分ではどうしようもなくできない。何故なのかもわからないし、それにどう折り合いをつけていくか、を悩みながら学んでいくのが思春期だとしたら、そんなこと悩んでも何も解決しないし、実際に今も尚解決していないし、しょうがないし、最早どうでもいいと気づいた時に、”そういう時期”と別れを告げることになる。
おさらばした後、幼馴染の結婚式の帰り道、当時のことを話して、いろいろ逡巡して、結果よくわからず、へぇ、となっただけの私は、これからいかようにも輝く成熟の季節に、自分たちが、突入していることに、ようやく向き合う心づもりができたのかもしれなかった。

あざます