父親気のせい
ここ数年病院に入院している父の、別の病院への付き添いで今日は病院へ。
私は小さい頃から家族をいつも窮屈に感じていて、常に誰かが怒っている雰囲気がとても嫌いだった。
なんでこんな家に生まれたんだろう?
「子供は親を選んでくる」なんて説にはさらさら納得できなくて、自分があんな親を選ぶはずがない…はじめから負けゲー選ぶようなものだと思って過ごしておりました。
殴られて怒鳴られて、嘘をついて酒飲んでまた怒る父。
今の父にはそんな面影はなくほっそりとした体躯はすっぽりと車椅子に納まり、立って歩くとよちよち歩き。
おみやげのコーヒーやドーナツを大喜びして、食べた数秒後には忘れてまたねだる。
もう恨みや恐怖感は感じないし一緒に過ごす時間もそんなにないと思うと、できるだけ付き添いの時間くらいは好きなものを食べさせてあげようかなという気持ちになる。
だけども今日夜に感謝日記を書いていたら、突然思ってもみなかった父のすごさを発見して衝撃が走った。
もしも私が子供の頃から憧れて切望してやまなかったようなとっても仲良しの家族で、お父さん大好きな娘だったらこの事実を淡々と受け止められたのだろうか?
たぶんそれは結構むずかしいことだったんじゃないかなって思う。
もしかしたら直視できなくて泣き腫らして、同席なんかできなかったかも。
だってオムツをして欲しいものをねだって、何個も何個も食べたいだなんていって口をひらけば何度も同じ話を繰り返す父。
もともと入院してる病院からの付き添いもついてきてくださってるから大人ふたりがつきそってる。
うちの5歳の娘より生命維持力低い。
なのに父の昔がひどすぎたから、お父さん若干かわいいなくらいに思ってしまう私。
これはまさに、過去の関係が良い効果を発揮してる証拠じゃないか!
私はふたたび付き添われタクシーに乗って病院に戻る父親を見送りながら、びっくりするほどの幸せを感じていた。
自分で車が運転できる幸せ。
お金を持てる(自分で財布を持って支払いできる能力があることの)幸せ。
帰る家がある幸せ。
家族が待っている幸せ。
母のごはんが食べられる幸せ。
仕事があり私に会いたいと言ってくれる人がいる幸せ。
好きな時間に風呂に入り本を読み文を書ける幸せ。
コンビニにいける幸せ。
スマホを持てる幸せ。
今日がある幸せ。
明日がある幸せ。
山のように幸せがある。
これがまだ父に対してわだかまりがあったのなら、自分の老後はこんなふうになりたくないとか、かなり見下げた意識を持って父を眺めたかもしれない。
だけど父はこんな幸せに気づかせてくれる存在になった。
そのこと自体が本当に幸せ。
私はやっぱり親を選んで生まれてきたんだな。
なんということでしょう。
さんざん呪って嫌った家族のおかげでこんなにも幸せに気づけるなんて。
すべては私のためにあったんだな。
父は言う。
「病院にいて幸せ。みんなやさしいし、ごはんも3食でるし、おやつも出るよ。お金の心配もしなくていい。だからずっとここにいるわ。だから俺のことは心配すんな」
病院に入るときはそれはそれは抵抗した。
だけど今は精神病棟に入っていてそんなふうに思う人がいるんだなと思うほどに父はいろいろ脱ぎ捨てている。
そして身をもって私にそれを見せて教えてくれている。
なんて尊くてありがたいんだろう。
ありがとうお父さん、大好き。
大人になってこんなことを思う日がくるなんて。
お父さんが嫌いだなんて、自分は不幸だなんて、ずっとずっと気のせいだったんだな。
今日もすごい気のせいに気づけてよかった。
つぎはどんな気のせいをみつけられるだろう。
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