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空虚の春

私は一体、何をしてきたんだろう。

毎日のようにそんな言葉が浮かぶ。

自分が今まで自他に放ってきた
全ての言葉が
空回りしていたような感覚になる。

自分がいいと思って握りしめていたものが
幻想のように思える。

大抵の不適切な子育てをする親は、
自分がいいと思って固く握りしめたもの(信念)

自分の子どもを
縛ったり叩いたりする。
精神的、物理的、あるいは両方で。

自分がそうでないとはいい切れない。

先天的か後天的か何らかの理由で
次世代を育成する大人として
精神的に成熟することが難しかった祖母を
間近で見て育ち

誰よりも
そうなりたくないと恐れていたはずなのに、
今は自分がそんな存在なのではないかと
おびえる。

今までの自分は、
記憶にないときから存在しているような
深いところにある大きな空虚を
必死に見ないように、
蓋をする努力をするような
生き方をしてきたような気がする。

この空虚は、おそらく母からもらったものだ。

母は語らなかったけど、
似たような空虚をもっていたはずだ。
私のより、もっと大きくて深い穴。
そして同じような努力をしようとしたんだろう。

今、家でご飯を食べると感じる。

母は私たちに
家のご飯を作り続けてくれた。

祖母が死んで、心を病んでも、
母でいることはやめなかった。

母でいることを
不器用ながらも
なんとか全うしようとしていた。

空虚にあがらうためか、
空虚のふちにある命綱だったのか。

今、何かをしたいとは思わない。
よりよい自分になりたいとか、
向上心とか、前向きな行動とか
違う世界の音に聞こえる。
前にも後ろにも行きたくない。

何も、したくない。
じっと、止まっていたい。

外の仕事は急に辞めることは難しいので
なんとか行っていて、
子どもたちの母であることも
なんとか…最低限。

時間があれば寝転がっている姿ばかり
見せている。
いつまで自分はこんな状態なんだろう。

外に行けばそれなりに楽しい。
美しい春、
美しい花、
美しい緑、
美しい音、
優しい人たち。

それでも、母が死んだ今、
誤魔化せないのは
自分の中の空虚。

人生で出会う
最も深い悲しみの一つの中で、
ある、と信じていたものが、本当はもう既になかった、もしくは最初からなかったと思い知らされたとき。

今までの自分の言葉や行動の
答え合わせを
させられてるみたいだ。

自分の空虚から逃げるやり方は
もう終わりにしないといけないのだろう。

そのためにじっとエネルギーをためている時間なのだと、信じたい。






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