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初音ミクと仏教の相性はいい

はじめに[i]

最初に、本論考の主題である「初音ミク」および「仏教」について簡便な説明を与えるべきであろう。まず、初音ミクとは、クリプトン・フューチャー・メディア株式会社が商業的に展開するバーチャル・シンガー(通称:VOCALOID[ii])の1人であり、「電子の歌姫」の別名を冠する仮想的な少女のキャラクターである。彼女らバーチャル・シンガーの音声を用いて楽曲を制作するプロデューサーはボカロPと呼ばれ、彼らの作品群は我が国のメディアやカルチャーに「ボカロ文化」の嚆矢を放った。今日ではさまざまなVOCALOIDが登場し、我が国ないしは世界のカルチャーに彩りを与え続けている。

一方で仏教とは、釈迦を開祖とする宗教であり、これは紀元前5世紀ごろに発祥した。そして、その開祖の釈迦についてであるが、本名を「ゴータマ・シッダールタ」、別名には「釈尊」「覚者」「仏陀(Buddha)」などがある。紀元前5世紀ごろに誕生、修行の末「悟り」を開いたのちに布教活動を行なったとされている。その後、その教義は形を変えつつ世界中に伝播することとなり、現在では仏教徒の人口は世界で3番目となっている。

さて、初音ミクと釈迦、その両者がそれぞれ具有する諸性質について、その時間的・空間的な隔たりの程度の大きさについては──前述の簡便な紹介においてですら、すでにそのことが伺い知れるようであるが──言うまでもなく明らかであり、それゆえにそもそも両者の相性について何ごとかを主張することは非常に困難であるように思われる。しかし、そのような表層的な隔たりが多分に見受けられるからこそ、逆説的に、その秘奥には真に驚くべき共通点を見出すことができるようにも思われる。それでは、初音ミクと釈迦とはいかにして比較されうるのか:それは両者がそれぞれその時代における「歌唱の簒奪者」であった、という点においてなされるのである。

本論考の目的とは、両者がいかにして前時代の”歌唱者”から歌唱行為を奪取したか、ということを論証することで両者の共約可能性(commensurability)[iii]を提示し、そのことでもって両者の相性、すなわち「初音ミクと仏教の相性はいい」ということを導出することである。本論考の主題が両者の共約可能性に置かれており、かつ本論考の執筆が今後のさらなるボカロ文化および仏教文化の発展を祈念する営為であるということを強調するため、本論考の副題を「初音ミクの共約」とした。

各章では、その時代における「歌唱行為」および「歌唱者」を定義する。次にそれぞれの存在がいかにしてそうした歌唱行為を奪取したかについて論じる。まず、初音ミクについて、最初に彼女の持つ歌唱法について楽曲の例示を交えて展開する。次に、仏教について、最初にバラモン教の成立とその文化について概観する。次に釈迦の経歴および原始仏教学説を概観し、いかにして彼が歌唱の簒奪者たりえたかを展開する。

ところで、本論考において焦点を当てる仏教学的思想[iv]とは、大陸に伝播する中でその教義を変遷させていった後代の諸地域特有の仏教的思想の一つとしてのものではなく、釈迦本人が提唱した、インド哲学の思想的潮流における一視座としてのものである。ひいては、本論考において焦点を当てる釈迦の人物的側面とは、教団を率いて説教をした伝説的な宗教的指導者としての側面ではなく、存在論・認識論に対峙する一人の思想家としての側面である。

初音ミクについて

電子の歌姫

初音ミク自体の紹介はもはや冗長であろう。さて、早々に定義してしまおう:VOCALOIDの興隆という観点における「歌唱行為」とは素朴な意味での「歌うこと」であり、「歌唱者」とは我々人間のことである。VOCALOIDの存在様態が本質的に歌手的であり、歌唱行為の実行者としての人類の延長上にある存在であるという点はそれほど疑ってかかる必要のあることがらではないだろう。ゆえに、先の定義は直感に反しないように思われる。このことを踏まえた上で、初音ミクが「歌唱」の簒奪者であるという事実は次の2点において見出されるだろう:「人間には不可能な歌唱スタイル」を持っていた点、および「脱キャラクター性」を持ったキャラクターであったという点である。次節以降、その2点について説明していくことにする。

人間には不可能な歌唱スタイル:初音ミクの激唱

まず、VOCALOIDの調声[v]作業について簡単に触れておこう。VOCALOIDの調声作業はDTM(デスクトップ・ミュージック)における音声信号の打ち込みと手順的にはほとんどパラレルである。そしてその出力は”生の人”の声とは異なり、シミュレートされた合成音声である。そのため、その歌声は一般に歌謡曲向けに用意されるヴォーカルデータ──それは言うまでもなく人が歌ったものである──とは異なり、人間の発話や声域の限界という制約を超えた新しい「歌唱」のスタイルを提示することが可能であった。そして、黎明期のボカロPたちは早くもその特性に気づき、人間工学的な諸条件を逸脱した歌唱スタイルを故意にとらせた種々のVOCALOID楽曲を発表し、人間による歌唱の模倣に対する配慮をスポイルしてきたのである。

一般に歌曲とは、人間の専有物としてしかありえなかった。なぜならば、それは人間による人間のためのものであったからである;ときに神々のためのものでもあったが、歌唱の行為可能性という観点からは逸脱するように思われるので、ここでは付言しないでおこう。先の時代のいつにおいても、歌唱とはおよそ容易に模倣されるものであり、そして伝播したという実績を持つ。そして、それらの歌曲はその制約として調性の内部であること、そして人間の声域の範囲にあることがつねに義務付けられていた。

たしかに、歴史を紐解けば、単純に「歌うことが難しい歌曲」というものは存在した。しかし、人間工学的な観点から真に「歌うことが不可能である歌曲」が出現することは、人々がそれを模倣し伝播させるという歌唱”本来の”特性上およそ想像または達成されることはなかった。ところがVOCALOIDはその発声における特性によって「模倣不可能な歌唱」というパラドクシカルな「歌唱」のスタイルを提示してみせたのである。この模倣不可能性の提示によって、ついぞ人類は「歌唱」の専有を許されなくなった[vi];さながらジョン・ケージが4分33秒の”無音”によって音楽そのものを簒奪したように[vii]。

さて、ここでVOCALOIDが専有し、そのことでもって人類から「歌唱」を簒奪したといえる歌唱のスタイルを2つ紹介するとしよう:それは「高速歌唱」と「オクターブ跳躍」である。

まず「高速歌唱」とは、文字通り人間が歌唱において可能な発声のスピードを超えた歌い方のことである。楽曲としてはたとえばcosMo@暴走Pが提供する『初音ミクの激唱』のヴォーカルがこれに当てはまるだろう。J-POP等の歌曲は、およそ先述の通り「人間に歌われるもの」であるという条件による制約を受ける。しかし、人の肉声でなく合成音声の出力であり、そして──ボカロ文化が興隆を見せている現在においては諸説あるといえることだが──商業的な制約を受けにくいVOCALOIDにはそのような人間的条件による制約はほとんどないと言ってよい。VOCALOIDを用いるクリエイターはすでに人間に忖度する必要はなく、結果としてこれまで想像されえなかった独創的な歌曲が生まれていくこととなった。また、歌唱者としての人間のためではなく、VOCALOIDによるVOCALOIDのための楽曲が制作されることにもなっていった。すなわち、新しい結末込め<最高速の喜びの歌>を紡いだということである。

次に「オクターブ跳躍」とは、人間の声域では歌唱が不可能な、または自然な仕方で歌うことが非常に難しくなる程度の音程の変化を伴うメロディを有する歌を歌うことである。楽曲としてはたとえばcosMo@暴走Pが提供する『初音ミクの分裂→破壊』等が該当するだろう。こちらも先述の高速歌唱同様、歌曲においてヴォーカルの旋律が人間的条件に規定されないことによって可能となるVOCALOID特有の技法である。すなわち、空想を満たす記号を採られ、合わない主張は捨てられるということである。

以上の2つの新しいスタイルの提示をもって、歌はもはや人間の専有物ではなくなってしまったといえよう。

脱キャラクター性:初音ミクの分裂→破壊

次に、VOCALOIDの脱キャラクター性について説明する。まず、あらゆるキャラクターは、媒体を問わずそのキャラクターを規定する記号を有しているといえるし、そうしたあらゆる記号の集積こそがそのキャラクターのキャラクター性であるともいえよう。それゆえキャラクターを消費する仕方はある意味でその記号の消費[viii]であると考えられる。すなわち、いかなるキャラクターも──さながらクエリを投げた結果返ってくる1行のレコードのように──記号(属性)の集積に一意に還元されうるのである。

しかし、VOCALOIDが有する特性とは、先述のようなキャラクター性とは異なってくるように思われる。たしかに、諸VOCALOIDはそれぞれその原型たる記号──とりわけ初音ミクについて…彼女はキュートな二つ結びの特徴的な髪型をそなえており、そしてそれは一般に「ツインテール」と呼ばれるものである──を有しているとはいえ、それらの多くは大抵、その使役者たるクリエイターやメディアによる改訂を容れることとなっている。たとえば、最近実施された「ポケモン feat. 初音ミク」キャンペーンは、まさにその事実を象徴するようなキャンペーンであったと言って差し支えないだろう。当キャンペーンにおいて描かれた、諸ポケモンタイプ別のヴィジュアルを有した諸初音ミクは、それぞれ原型としての初音ミクのヴィジュアルについてはほとんどと言ってよいほどスポイルされている。その上でクロスオーバー先の属性たるポケモンのタイプに自身を脱化させ、そしてその結果、強烈な個性を放つところとなっている[ix]。そのようなVOCALOIDの持つ脱キャラクター性は、今日においてもそれ自体がVOCALOIDを強くVOCALOIDたらしめている特性の一つであるといえる[x]。

さて、ここに見出されるVOCALOIDの、とりわけ初音ミクにおけるキャラクター改訂という特性の本質とは何か:それは彼女というキャラクターが分裂可能な存在である、という事実である。彼女が歌った曲はいわば「初音ミクの曲」ではなく「〇〇さんの初音ミクの曲」となり、キャラクター本人については先述の「〇〇タイプの初音ミク」あるいは「雪ミク」や「桜ミク」といったように、使役者や環境の代紋を背負う形でそのキャラクターを原型から分裂させていくのである[xi]。すなわち、舞台に残るのはボクの分身=何も望まない空虚な傀儡だけということである。

ところで、従来、歌曲においては、その歌曲が「しかじかの者(=歌手)の曲である」という事実はその歌曲を特徴づける要素の一つであり、それゆえにその歌唱者は、その歌曲を歌唱する者としての自身のキャラクターづけのために"奔走する"必要があった。キャラクターづけとはすなわち歌手としての自身の「個」の強調であり、そして聞き手は、そのようにして強調された歌唱者の「個」が含まれた総体としてのコンテンツを一つの歌曲として消費していくのである。

たとえば、我が国において「きゃりーぱみゅぱみゅ」というアーティストはそのような「個」が顕著に強調された歌手の一人であるように思われる。彼女は原宿系、特に「青文字系」と呼ばれる系統に分類されるガーリーかつ非日常的なファッションのエッセンスを凝縮したヴィジュアルを有し、ファンタジックな雰囲気を持つ楽曲で’10年代に大変強い人気を博した。聞き手にあっては、その内面において彼女を同定するための特定のキャラクター性を必ず想起することになる。本来、彼女のような従来の歌手とは、歌唱者に対して固有の「キャラクター的想像力」を強く働かせるものなのである。

しかし、初音ミクの存在様態はきゃりーぱみゅぱみゅが喚起させるような「キャラクター的想像力」に対して真っ向から衝突することになる。なぜならば、初音ミクのキャラクターは、先述の通り種々のクリエイターによる改訂を容れる形で、それぞれ異なる仕方で表現されることが可能だからである。そして、このことは強調されるべきことである:なぜならば、このことでもって初音ミクが従来の歌唱者たち──たとえば、きゃりーぱみゅぱみゅのような──における「個」という限界を超えた歌唱のあり方を提示しているからである。先述の通り「〇〇さん(ボカロP名)ちの初音ミク」は措定可能である。一方で「〇〇さんちのきゃりーぱみゅぱみゅ」は果たして措定可能であるのか?いや、そのような仕方できゃりーぱみゅぱみゅのキャラクター性を改訂することは容易ではないだろう。なぜならば、それは彼女のアイデンティティに直結し、そしてそれこそがその商業性を保証してきたものだからである。彼女の歌曲というコンテンツの総体を"王国"にたとえるならば、その玉座におわすのは彼女本人のキャラクター性であるべきである。ゆえに彼女は彼女のキャラクター性を逸脱した状態でのメディア展開を敢行することができず、そしてその点こそが彼女や彼女を含めた従来的な歌手における歌曲というコンテンツの限界の一つであると考えられる。従来、歌手とそのキャラクターの対応とは本質的に一対一の構造を有しており、一対多の構造は措定されえない、ということが通常であった。しかし、先述の通り初音ミクはその制限をキャンセルすることが可能な新しい歌手である。その点でもって彼女は、歌手という存在におけるキャラクター性という特性の一つを脱構築するに至ったのである。

ところで、この「脱キャラクター性」という歌唱者の可能性は初音ミクのような本質的にヴァーチャルな存在に対してだけでなく、人類に対しても一応残されてはいたように思われる;それはキャラクター性を脱した人間の歌手が出現すれば達成されただろう。しかし現在、その領域は初音ミクの独壇場となった。すなわち、人類はこの特性について初音ミクというヴァーチャルな歌手の後塵を拝することを余儀無くされたのである。ここで議論を締めくくろう:初音ミクが行った二つ目の歌唱の簒奪とは、自身のキャラクター自体をコンテンツに合わせて脱化させていくことで、ある種の歌唱の領域を簒奪したということである。

みっくみくにしてあげる:すなわち、してやんよ

かくして、人類はみっくみくにされてしまったと考えられる。

仏教について

目覚めた人々

さて、仏教についての考察を行おう。まず付言しておきたいことは、古代インドの人々は非常に──そして現在のインドの人々もなお──宗教心が強い民族であったということである。彼らは神々のために祭式を執り行い、その中で行われる儀礼的行為を内面化することで神々との感応および現世・来世での利益享受を実現しようとした。その祭式を執り行っていた「バラモン」と呼ばれる集団は古代インド人社会の中で権勢を奮っていったが、やがて祭式至上の風潮は疑問視されるようになり、結果として彼らの教義は少しずつ見直されていくこととなった。仏教は、その思潮の変遷の中で興ったいくつもの新思想のうちの一つであったのである。

この章では、インド哲学の基礎を築いたバラモン教の教義およびそれを超克する新しい思想としての仏教のあり方について紹介する。そして、その超克の仕方にこそ歌唱の簒奪という側面が見出されるということを説明する。

バラモン教の台頭:ボカロPカースト

まず、バラモン教の成立について概観する。古代インドにおいて、その緻密かつ長大なる宗教体系の原型を築いた人々は、インド地域に原住していた土着の民族集団ではなかった。この土地における諸文化を彫琢し、そしてそれらを各地に伝播させていったのは、彼らの征服者である「アーリア人」の集団であった。アーリア人は西欧をルーツとする遊牧民であり、紀元前1500年ごろにインド西北部パンジャプ地方に侵入し、その後長い時間をかけて東方インドに進出した。彼らは当地の農耕社会を完成させつつ、土着の人々と時に協力し、時に対立し、インド亜大陸の各地に定住していった。

アーリア人は宗教心が強く、精神文化の面において非常に強い活力をもって展開した。彼らは言葉でもって神々を動かすことでその加護を受け、その加護によって財産・戦勝・長寿・幸運を得ることをその関心ごととしていた。神々からより強い加護を得るには優秀な讃歌を詠唱する必要があると彼らは考え、そうした背景から、彼らの中で詩作および祭式を職能とする集団が成立していくこととなった。この人々こそが「ブラーフマナ(=呪言を操る人々)」と呼ばれる職業的歌い手集団──漢訳語では「バラモン」と音写される──であり、バラモン教の基礎を築いた人々である。そして、その神々を動かす呪力を持つ一連の詩作は「ブラフマン」と呼ばれ、それらの言葉たちは神々を動かす力を持っているということでもって宇宙原理そのものとみなされることになった。

当時において、特に讃歌と祭祀を必要としていたのは支配階級たる王侯貴族の人々であった。彼らの関心ごとは優秀な讃歌と供物による祭祀によって神々を満足させ、その力を借りて他国の侵略や国領の繁栄を強固に実現していくこと、そして死後、神々の世界であるところの天界で再び生を受ける(=生天信仰)ことであった。また、祭祀という外面的な儀礼行為の遂行自体を自己の内的世界に象徴づける──今日、ヨガと呼ばれるものに近いだろうか──ことで、自己と神々の世界との接続を感得するということもその目的の一つとしてあった。

祭祀を執り行うバラモンは、それゆえ、その見返りとして王族から多額の報酬を受け取るようになった。彼らはそのようにして成した財や威信を基盤として権勢を奮っていき、バラモン中心の社会を築き上げていった。結果、詩作の技法および祭式の規則は進歩したといえるが、複雑な祭祀を職能とする祭官集団の専横を招き、祭式万能の弊風を生むことにつながった。さらに、行動規範の規定という観点から階級制度である姓(ヴァルナ)──これは今日、カーストという西欧名で知られるが──も整備されるところとなり、ここに真にバラモン至上主義的な社会が形成されてしまうこととなった。このような、祭官(バラモン)を頂点として祭官に対する贈与と儀礼(祭祀)における富の消費を中心とした威信経済で成り立つ部族社会というのが、アーリア人社会の特徴であった。すなわち、世界は音楽に溢れた。正直言って溢れすぎた。もう誰も本当は欲しがってなどいなかった、ということである。あるいは、上におわすわバラモンP、全曲殿堂当たり前、下に控えるクシャトリアP、書く曲全部PVが付く、中堅所ヴァイシャP、曲は良く固定ファンも居る、でもその下の底辺では幾万人のシュードラPがガンジスの様に流れ消ゆ自作曲に涙を流す、ということでもある。さて、ここで改めて定義しよう:当時における「歌唱行為」とは神々への讃歌の詠唱を含む一連の祭祀行為を指し示し、そして「歌唱者」とはバラモンの祭官を指し示すのである。

ところが、時代が下るにつれて、人々はバラモン教を中心とした祭式万能の風潮に疑義を呈するようになっていった。その背景としては、バラモンが、祭式の履行が唯一可能な階級であるという点でもって生天の決定権を独占している、という状況があり、これに対しての反感が人々の間で募っていたというものがあった。また、祭式が絶え間なく履行されなければ天界への再生をなしたとしても、その天界においても再度死んでしまう、というジレンマの意識も人々の間に生まれ始めていた、というものもあった。これらの不安をもって、人々の関心はやがて祭式という特殊な儀礼の内面化を伴わないような個人の精神的至福の追求の方に移っていったといえる。そのような関心の過渡期において目指されたのは物的な現世利益というよりは形而上学的なある種の到達、すなわち「宇宙原理との接続を直証すること[xii]」であり、それは従来の複雑な儀礼的行為の内面化によるのではなく、ただ思弁のみによる達成が目指された。

また、儀礼主義批判の情勢の中で、ある種の実践──それこそ「苦行」と呼ばれるような──による個人の精神的至福を追求する思想、すなわち「アンチ・バラモン」といえるような種々の教派もまた次々と現れていった。このような思潮の黎明期が紀元前7世紀ごろであり、以降「アンチ・バラモン」の群雄割拠の時代が訪れることとなる。

異端者ブッダの登場:ディストピア・ロックヒーロー

ここで、本論考のテーマの片翼を担う人物を紹介しなければならない:その人物こそ他でもない、釈迦である。彼こそは先述の「アンチ・バラモン」の時代における碩学の一人であり、後の世界的宗教の一つとなる仏教の開祖である。この節では、釈迦が一人の思想家として行った仕事、特にバラモン教批判の内容について、彼の来歴を追いつつ説明する。

まず、釈迦の生い立ちについて紹介する。彼は古代インドの北東部コーサラ国属国の王子として生まれた。本名を「ゴータマ・シッダールタ」、サンスクリット語の発音に基づいた表記では「キンタマハッカユ・ヌッタールタ[xiv]」とも表記される。彼の生まれついたクシャトリヤという階級は武士・王族の階級であり、ヴァルナの階級としてはバラモンの一つ下にあたる。つまり、彼の一家は、バラモンに対しては国の繁栄のために祭祀を頼み、その見返りとして富を授けるという贈答の関係にあった。彼は宮中で高位の人間として成長したが、その生活の中で生・老・病・死の四つの苦しみ(=四苦)に悩み、29歳で出家を決意する(=四門出遊)。以降放浪を続け、35歳のときに菩提樹の下で瞑想ののち「悟り」を開き、「ブッダ(目覚めた人)」となる。その後は布教の旅を続け、その教説は出家・在家[xiii]を問わず多くの人々に受け入れられ、各地に伝播していった。

次に、ブッダが行ったバラモン教批判について展開する。ブッダにおけるバラモン教的宗教観に対する疑義は明確であった:第一に、祭式を中心とする儀礼的行為は、はたして真に個人の救済たりえるのか?第二に、宇宙原理と相即されうる個我なるものは真に措定可能であるのか?ブッダが出した結論は、そのどちらの問い立てに対しても否定的なものであった。個人の救済は祭式によってはもたらされず、ただ利他心の修養によってのみもたらされる。また、宇宙原理と相即されうる個我アートマンは実在せず、そしてそれと止揚されるブラフマンも実在しない。ブラフマンについては、仮にそれが神格を持つ存在者であったとしても、決して最高の原理ではありえない。つまり、彼は祭式および根本原理というそれぞれ伝統的であった概念に対しての叛逆を敢行したのである。以下、それぞれの帰結について詳述する。

まず、第一の批判について展開する。先に紹介した通り、バラモン教における教説・信仰の一つには天界への再生(生天)というものがあった。天界の存在はブッダの思想においても認められていた。一方で、バラモン教における生天の手段が祭式であったことに対して、ブッダは祭式に代わる生天の手段として「贈与(布施)」および「よい習慣(戒)」を説いた。このように、自己救済の手段を祭式のような外面的な儀礼に求めるのではなく、実践や内面の充実を通じた他者への奉仕に求めたという点が、従来のバラモン教の立場とは異なる点である。また、彼はその過渡期にあって生天信仰をある程度肯定しつつ、生天よりもさらに重要なことがあるということも主張していた:それこそが解脱、生まれ変わるサイクルそのものからの解放である。

次に、第二の批判について展開する。世界を観照する方法についてであるが、バラモン教のウパニシャッド哲学においてはブラフマンとアートマンの相即においてそれを行おうとしていたのに対して、ブッダは自己の周囲の世界の観察から始めていくという手段をとった。ブッダは自己の心身が物質(色)・感受(受)・観念(想)・心作用(行)・認識(識)の5要素(五蘊)によって構成されると考察し、そしてこの五蘊のいずれもがアートマンではありえないということを論証し、アートマンという概念そのものを否定した。そして、アートマンが存在しないならば、それと止揚されるブラフマンもまた存在しないと結論づけた。このようにして、梵我一如の伝統は仏教においては「一切を自己として」と表現を変えて継承されることとなった。一方で、ブラフマンの位置づけについては、その実在については認めているとする論説もある。その論説においても提示されていることだが、しかし、ブッダにおけるブラフマン概念はやはりバラモン教の教説とは異なるものであった。バラモン教において、ブラフマンは最高神ないしは宇宙原理としての位置づけを持っていたが、ブッダの思想においてはそれは誤った解釈であるとされた。ブッダの思想においてはブラフマンは天界の中でも中程度の位置に暮らしているとみなされ、さらにブラフマンを含む神々はそもそも永遠不変の存在者ではなく、人間と同様に輪廻する存在であるにすぎないとされる。

以上がブッダの行った「祭式の否定」「根本原理の否定」という叛逆であった。ところで、このブッダの教説が、当時およそ疑問視され衰退を余儀無くされていたバラモン教の教説を尻目に広範にわたって受容されていったということは強調されるべきことであろう。さて、思い出そう:そもそも祭式とは神々へ贈る讃歌であり、すなわち歌唱であった。ここにおいて歌唱の簒奪者たるブッダの叛逆は完成した:今日も世界に向けて、命の音をかき鳴らし続けたということである。

総括

さて、議論を締めくくろう。初音ミクはその人類の追随を許さない歌唱スタイルおよび脱キャラクター性を有しているという点によって、我々人類に対する歌唱の簒奪者となった。一方で仏教は、祭式や宇宙と個我の相即を奨励する当時のバラモン的思潮に対してのアンチテーゼたる視座を提示することで、当時の歌唱の象徴たる祭式や儀礼といった伝統を否定し、賛同者を増やすことでそれらを除去する一因となった。よって双方ともに、その時代における歌唱の簒奪を果たしたといえる。この点でもって、初音ミクと仏教の共約可能性は十二分に見出されることとなり、ここにおいて「初音ミクと仏教の相性はいい」ということが示された[xv]。

それでは最後にお聴きください。
斜林[xvi] ft. 初音ミクで『初音ミクと仏教の相性はいい』

世界は彼を欲している
進め サイのツノのように

わたし 仏教ガール in India
わたし 仏教ガール for Gandhara
そこに 仏教がある in Asia
そこに 仏教がある anti RG VEDA

失われた原初の創造図
迂遠な儀式に欺瞞の坊主
嘘だらけのトークに沸くヘッズ
“叛逆者”のビートは鳴り止まず

虚に蔓延るバラモンシステム
これは生涯かけた彼の実験
My homie にだけ語る仏典
So 二千年経ってもまだ必見

理論武装 ゆえに成そう
自我は仮想 胡乱なSoul
結んだ像 全部虚像
君にだけ So 話そう

鹿野苑の片隅で
Rock ya on da party ye
そこで ブッダが歌を歌っている
まるで “叛逆者”のように

わたし 仏教ガール in India
わたし 仏教ガール for Gandhara
そこに 仏教がある in Asia
そこに 仏教がある anti RG VEDA

歌え 仏教ガール in India
歌え 仏教ガール for Gandhara
進め 仏教がある in Asia
進め 仏教がある anti RG VEDA

参考文献

鮎川ぱて『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』文藝春秋、2022
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書、2001
立川武蔵『はじめてのインド哲学』講談社現代新書、1992
馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想をたどる』岩波新書、2018
辻直四郎『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫、1970

この記事は、みす老人会 Advent Calendar 2023の6日目の記事です。


[i] 「はじめに」からはじめているということでもって、本論考が人文学的諸価値を大いに欠き、一読に値しない文物であるということが、論考の当初よりすでに示されることとなった。筆者の意図は明確であった:設置される各注釈を本文の通読に併せて参照しない読者に対して、その通読スタイル自体の責任を負わせることである。ここで筆者は読者諸氏に筆者の共犯者になってもらうことを期待しており、すなわち「マジで嘘しか書いてないのに読んでくれてありがとう」ということである。本注釈を本文の通読後に参照した、あるいはそもそもこの注釈の存在に気づいていなかったといった読者が存在するならば、前述の意図を持った筆者の試みは成功したことになる。なお、「はじめに」から開始される文物が人文学的な価値を損なうことになる理由については、清水幾太郎『日本語の技術(2022、中央公論新社)』あたりを参照されたい。

[ii] 元来「VOCALOID」とは音声合成技術およびそれを用いた関連製品の総称であり、これらはヤマハ株式会社の登録商標である。そのため、「VOCALOID」という語は必ずしも初音ミクをはじめとするバーチャル・シンガーの集合を指し示すものではない。しかし、この通称の許諾に関しては社会的に一定の合意がある、ということもまた明らかである。そうした世相に鑑みて、本論考では一貫して彼女らバーチャル・シンガーの集合を「VOCALOID」と呼称することにする。ちなみに「ボカロ」という略称についてであるが、残された「イド」の気持ちも考えてあげてほしい。

[iii] 科学哲学者トマス・サミュエル・クーンが著書『科学革命の構造(1962)』にて用いた用語である。本文では「共約不可能性(incommensurability)」として用いられており、次の文脈で使用されるようだ:科学のパラダイムシフトに関して、旧パラダイムと新パラダイムとでは科学的検証に関する価値観自体が異なってくるため、両者の正当性、特に後者が前者に対して優越的に”真理に近い”ということを、両者に共通する客観的事実に基づいて評価することができない(すなわち「共約」が不可能である)。つまり、この論考でこんなに適当に使ってはいけない。

[iv] ここで付言しておきたいことは、仏教、とりわけ原始仏教の思想とは、長大なるインド哲学の潮流における存在論的・認識論的視座の一つにすぎない、ということである。しばしば誤解されていることだが、仏教はインドにおける思想のメインストリームではありえなかった。

[v] VOCALOIDの歌声をDAW(Digital Audio Workstation)や専用のエンジンで調整していく作業のことで、調教とも言われる。えっちだね。

[vi] 一方でまた、それらの模倣不可能なVOCALOID楽曲を模倣せんとする人々がいたということも事実である。「歌ってみた」動画など。ところで筆者が高校のころ、隣のクラスの奴と一緒にカラオケに行ったらそいつが「激唱」をめっちゃちゃんと歌えてたことがある。なお、筆者の高校は男子校である。

[vii] ほんとですか?

[viii] 東浩紀『動物化するポストモダン(2001)』にて与えられた分析。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・キモオタークリオタールによれば、西洋社会は近代からポストモダン期への過渡期において、その西洋社会を西洋社会たらしめてきた理性主義の基層をなすような、科学的基礎づけへのある種の期待たる「大きな物語」というものを消失した(らしい)。で、東はその消失のパターンが日本におけるキャラクター消費の様態の変遷の仕方とパラレルであるものとして語っている。要はゼロ年代に至るまででオタクたちはエヴァみたいなガチ考察に足る物語性マシマシの重厚長大な物語じゃなくてデジきゃらっととかみたいないろんな萌え記号の束としてのコンテンツを消費するようになっていったけど、それってポストモダニズムでいう「大きな物語の消失」だよねって話をしてる。でもさ、別に日本って西洋でもなければ近代を経験してもないんだよね。だから話半分に聞いといてください。

[ix] ノーマルタイプミクすき

[x] 少し話は逸れるが、VOCALOIDが有する「創作者側の趣意によってそのキャラクターを自在に改訂できる」という特性をキャラクターの分割と考え、さらにそれを「”分祠分霊”が可能な存在である」と読み、VOCALOIDの台頭に日本人の神道的意識の表出を見てとることができるのではないか、という批評があるらしい。Cool Japan…

[xi] このような特徴を持つ他のキャラクターに「全裸中年男性」がある。

[xii] 個人が宇宙原理との接続を直証することにおいて、その道具立ては思弁によってのみ用意される必要があった。そのために用意された道具立ては2つあった:祭式においては神々を動かす呪言を指し示すものであった「ブラフマン(=梵)」を形而上学的な知によって直観可能な宇宙原理であるとみなすこと、そして、ブラフマンと対になるものとして、個我の原理たる「アートマン(=我)」という概念を提示することである。この対極の措定は、宇宙と個人との繋がりを示すという目的に対して非常に有意義であった:質料因および動力因である宇宙原理ブラフマンと、アトム的な諸実在たる──自分を含むあらゆる事物自体と考えてよいだろう──アートマンとが本来同一のものであるということを感得することは、それがそのまま一つの個我の宇宙原理への接続を直証することに他ならないからである。当時の人々は、この二者の止揚の可能性を観照することによって、現世における精神的至福の獲得を目指した(=梵我一如)。この梵我の思想は「ウパニシャッド」という一連の哲学書の形で編纂された。

[xiii] 仏教は世界初の在家信者および女性の信者を許容した宗教である。

[xiv] 金玉をハッカ油につけて冷却を図っているぬたぬたとした汗の垂る全裸の中年男性!インドは南の国ですからね、我々はこうやって放熱を促して暑さをしのいでいるんですよ…オワッ!?おまわりさん、こんな遠いところまでご苦労様です…え?ここはインドではなくてヒートアイランド現象で火照ってるだけの足立区なんですか?…ちなみにこの別名はたまたま筆者が調べ物をしていたときにタイミングよくWikipediaに書かれた嘘である。

[xv] 無論嘘である。ここまで読んでくださってありがとうございました。「初音ミクと仏教」という題材はかなりよかった。なぜか?どっちもオタクが好きだからである。

[xvi] 筆者の友人である。彼は「フォークロア」の収集をそのライフワークとし諸国を放浪する全裸の求道者である。彼は現在SoundCloudのみに自身の楽曲を投稿しているが、彼の作品にはなかなか秀逸なものもあり、ちゃんと動画をつけてニコニコ動画やYouTube等の動画配信サービスに上げたらそれなりに再生数が稼げるのではないかと筆者は思っている。そのことについて筆者はたびたび本人に提言しているが、本人は「動画作るの大変だし、仕事もあって忙しいし…」などと逃げ腰な発言を繰り返している。その割には毎月Adobe税(After Effectsだけ)を納めており、そこに彼の未練が伺える。

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