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今ここ 草木6 銀杏

エッセイ、『今ここ』。このエッセイは、10~7年前に記したよねちゃんのエッセイです。天国の叔父と、私の母に読んでもらったことがあります。お蔵入りされていたのですが、もったいないので、こちらに投稿いたします。よろしくお願いいたします。それでは、どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ。

目次

https://note.com/ohayou_yonechan/n/na7485b8ee2db




今ここ 草木6

銀杏

会社の帰りだというのに気分が重い。憂鬱になる理由は数えればいくつかあるけれども、数えたところでますます肩が重くなるだけ。こんな日は本屋さんに立ち寄って、気分をリフレッシュしよう。立ち読みすればいい言葉に励まされるかもしれない。

本屋さんで漢詩の本を手に取る。パラパラとめくると古代中国の人達のメッセージが光っている。一つ文を読めば、そこに生きた人の山、川、職場、思い、切なさ……、目に映るように迫りくる。

おお。やっぱり漢詩はいいなぁ。と、感動のままにレジへ向かい、会計を済ませ、意気揚々と本屋を出る。早く読もうと近くの喫茶店を目指し、歩みを早める。

「すごいな、私もあんな風に書きたいな」
と思い、うぬぼれに任せて詩を考えてみるが。

目の前に山はなくビルが並び、夜の闇と星の明かりは見えずビルと自動車の明かりはまぶしくて赤信号が点灯する。川のせせらぎはない代わりに青梅街道を自動車がゴオゴオと轟音を立てて左へ右へたくさん走行している。遠くに故郷は持たなくて母と二人暮らしだし、懐かしい友人はいても、メール一本で連絡も取れる。この現代で何が書けるのだろうか、と落胆しかけていた。

でも、と考えなおし、今、私はここに生きていると。人は昔も今も生きていて、生活している。苦しみも悲しみも、喜びや愛も、別れも出会いもある。それに人は心が揺れてどうしようと右往左往することもあり、喜んで嬉しさを隠せずこぼれる笑顔もあり、大切な大切な誰かをいとしく思い守っている。

そうだよね、生きているんだ。そう思って、目の前の現代を生きるものを探してみた。街路樹の銀杏の木。アスファルトの道路の横に、街路樹として植えられている。その幹を見ると、ロープで巻かれていた。弱っているからだろうか。やはり、現代の街中は生きづらいのか。

悲しくなって下を向いてしょぼくれようとすると、黄色い小さな葉が7、8枚散らばっていた。銀杏の葉。秋で黄色く色づいて、風に散った銀杏の葉が銀杏独特の形をして、かわいらしく地面に落ちていた。秋の銀杏の葉だ。

銀杏並木の秋は黄色の美術展のように鮮やかで美しい。とある大きな公園で掃除の仕事をする人も、この美しい銀杏の季節になると、銀杏の葉っぱを掃かないと聞く。それは黄色い銀杏の葉っぱの絨毯が地面に敷き詰められた様子が、それはそれは美しく、人々の心を癒し和ませ、感動させるから。

人々は銀杏並木に身を置いて楽しみ、写真を撮って、踏みしめて、絵を描いて、楽器を演奏して、銀杏の葉達と秋と遊ぶ。銀杏の木、風に舞い散る銀杏、絨毯の銀杏。晴れた日も曇りの日も、雨にしっとり濡れた日も、美しい。

だけど、掃除の人は雨の日には銀杏の葉を掃いてしまうのだ。どうして、せっかくの銀杏の絨毯をなくしてしまうのかと思うと、人の足が滑って転んでしまうといけないので掃くという。そう、お年寄りや小さな子供も楽しむ公園だから。そんな人を思いやる、優しい気持ちで仕事をする、掃除の人に感嘆して、拍手を送りたくなった。

銀杏もこうして皆から愛され、喜ばれ、実はとてもうれしいのではないかな、と思う。

青梅街道の銀杏も見ごろになると美しく、街の人々のいやしになり、せわしない街の生活に、季節の彩りを添えてくれる。

そんな青梅街道の銀杏の木も実は喜びになっているのかもしれない。そうだと嬉しいと思いながら、早速この気持ちを詩に書こうと思って喫茶店に入り、あったかくておいしいコーヒーを飲みつつ、銀杏の木のあったかい話を書いてみる。

それで、自分はどうなのかとふと思って、人に喜びを運んでいるだろうかと考える。一緒に暮らす母の顔が浮かび、心配や苦労をかけ放しでこれはいけないと思う。

携帯電話がビービー震え出した。今は午後7 時40 分。きっと母からだ。母も会社が終わり、家に着き、私へ夕食を一緒に食べるので早く帰りなさい、という電話だろう。

早く帰ろう。
そして、母とあったかい夜の食事をしよう。私は喜びながら喫茶店を飛び出した。


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