不幸で何故悪い

不幸を覆す方法を教えてよ。

私は自他共に認める中途半端な不幸だと思う。
家庭に愛は無い、金もない、自分の部屋もなければプライバシーもない、家も汚い。ないないない!
何もないと思っているが、人様に話せば「そこまで大きくして貰ったら幸せやん」と返ってくる。

幸せ、とは何ぞや?
確かに、私は親に殴られていたわけじゃないし、食事を与えないとかいうネグレクトを受けていたわけでもない。
しかし、食事を与えて寝床を用意していたら、人間もペット同様勝手に大きくなるのです。
問題は「そこに愛はあったのか?」ということであって、虐待があるかないか、ではないんだと言いたい。

父親はモラハラのクズだったが、根っからの不幸体質だったと私は思っている。
何が一番不幸かって、現状を嘆きながら「何もしない」ことだよね、ほんと。
家が貧乏でも仕事を頑張ろうとしないし、何より努力を嫌うから勉強も嫌いなのでロクな仕事に就けなかった。

そんな父親が嫌いだったので、私は成績は底辺だったが約一年弱かけて受験勉強し、地元の商業科のある高校に入学した。
正直、簿記など全然好きになれなかった。就職校だったので、早く自立するための足掛かりとして入っただけだった。当然モチベーションなど上がらなかった。
もう一つ、商業科を志望した動機としてくだらないことが一つある。それは「父親が商業科だった」から。
しかし、父親は商業科に所属していただけで、簿記の資格は一つも無いという救いようのないアホだったのである。
「父より偏差値の高い学校に入って見返してやりたい、認めさせたい」という気持ちが僅かながらあったのだと思う。
だが、一番救いようのないアホで不幸なのは、私だった。

結局、私は何をしても父親には認めてもらえない。
父親の件で私の最大の不幸は、「父親に認められよう」とか「愛されたい」などと考えて行動することが一番アホで、救いようのない行動なのだということ。
そもそもの間違いは、人に認めてもらうために何か行動を起こすのは自分のためにならないということに、私は気付いていなかった。
そういった動機は、いずれ後悔で身を滅ぼす。
そのことに気付いたのは20代半ばで、他人のために行動するのではなく自分のために行動しなければと思い出したのはつい最近の話である。

不幸でいることは簡単で楽なのだが、幸せになる努力が一番辛くて難しい。

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