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のりうつる

今日、街で小さなお祭りがやっていたので行ってみた。

こじんまりとした道幅の商店街を全て歩行者天国にし、道の両脇に所狭しと湯気の立つソーセージや淹れたてのコーヒー、あつあつのホットサンドやかき氷の露店まで出ていた。

楽しそうなので長い商店街をとりあえず端まで歩いてみることに。
休日なのでたくさんの子供、親子、道に座って美味しそうに何かをたべる学生、カップル。
のんびりと歩く人々で溢れんばかりだった。

奥まで行くとフリーマケットや、生バンド、カード大会、着ぐるみもいてもうそれはそれは人、人、人、とすごい活気。

ボヤッと歩いていたらどうやら端まで来ていたので、そのままくるっと振り返り来た道を戻る。

商店街に足を踏み入れた時は久々のお祭りや所狭しとならぶ商品たちに圧倒されていたのだが、すでに結構歩いたのでちょっと暑いな、疲れたな、今日は眩しいな、などと思う余裕が出てきた。

が、それが私にとってはスイッチとなる。
さっきまで良いなと思っていた光景が一転しんどいな、いやだな、痛そう、不快、に途端に入れ替わってしまった。

サングラスを忘れて眩しい、太陽で目が痛いな。
飛び出してくる子供、こわいな。
道に座った学生のそのお尻の冷たさや固くて清潔ではないアスファルトの質感が自分に乗り移ってくる。
喧嘩してる家族を見てそのお互いの冷たい視線に心が痛む。
子供が転けて膝を打った、私の膝までグキっと痛んだ。

髪の毛がボサボサの男性の、ムッとしそうな部屋の匂いが鼻に入ってくる(...という気分になる)
ヤンキーが着ていた安い化繊のパンティーみたいなキャミソール、ザラザラと肌触りが悪そうで思わず自分のデコルテを撫でた。

...なんでか全部自分に乗り移ってしまう。
いつもそうだ。昔からずっと。
お前が俺で、俺も俺。
人が感じてるであろう不快感が全てダイレクトに自分に移ってくる。
いや、正確にはその人たちは不快じゃないからそうしてるんだけれども、それを見た私の身にそれがそっくりそのまま乗り移り、それを感じた私がとてもいやな気持ちになってしまう。うわぁ、苦しい。

このモードに入るともうダメで、特に1人だと気分を変える会話もないのでしばらくこのテンションが続く。
早く帰りたい。目の前の人が全て自分の身体に乗っかってくる。

もうあまり何も見ないようにしながら歩き、いつもの高級スーパーへ。
高級スーパーは良い。
野菜は美しく清潔で理路整然と並んでいるし、フルーツは鮮やかで見てるだけで舌に味が乗ってくる。
床はピカピカに磨かれていて温度も適温に保たれているし、なによりヤンキーがいない(?)

でもこんなのは珍しい事ではなくて、誰しもがグラデーションはあれど同じように感じる瞬間があると思う。それが共感って事だから。

でも、それにしたってイヤなことが多すぎる。
肌触りの悪そうなレースがイヤだ。
きちんと梳かされていない艶のない髪がつらい。
底面の合皮が剥げた安そうなバッグがつらい。
きたない言葉が辛いし、人の愚痴や噂話が苦しい。
ジッと見据えてくる人の視線がつらい。
同じ目が合うでも犬ちゃんは可愛い。

...こんなので、東京の人口密集地に住んでることが間違いなのかもしれないが、だからってもうよっぽどポツンと一軒家みたいな、家の周り全部山や牧場で、人とも少しも関わらないようなレベルの生活でもしないと解消はされないんじゃないかと思う。
田舎に行ったって錆びた看板が辛いし、殺風景な幹線道路沿いのチェーン店が物悲しくてつらいし、イオンモールの人工的なタイルやよく分からない柄のふかふかのカーペットが無機質でつらいのだから。

そんなうがった目線で物事を見ずに済むにはどうしたら良いのか、自分を矯正しようとしたこともあるのだが、なんだか無理だった。
だから私はなるべく人と関わらない生活を選んだ。
選び、そして今はさらに休職までし、ほとんど誰とも関わらずに暮らしているのに、それでもたまのこういう出来事に打ちのめされてしまう。

帰宅し、鍋いっぱいの野菜たっぷりミートソースを作った。そしてそれを茹でたうどんにかけてたべた。
見た目はすごいけど、これは全然好きである。


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