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パレスチナ問題/逢坂誠二 #7586

【23年10月9日 その5889『逢坂誠二の徒然日記』 #7586
昨夜、せたな町入りし、今日はせたなでの朝です。雲は少なく、夜明けに向かう群青色の空が広がっています。今の気温は6度。日中は晴れで、20度になる見込みです。

1)パレスチナ問題
中東イスラエルでのイスラム組織ハマスによる大規模な攻撃、イスラエル軍によるガザ地区への空爆など、中東が極めて危うい戦争状況になっています。相当に憂慮すべき事態で、全ての当事者が自制すべき局面です。直ちにお互いの攻撃を止めて、民間人を保護しなければなりません。また日本政府は邦人の身の安全に確保に万全を期さねばなりません。

十字軍やナポレオン遠征などの舞台にもなってきた パレスチナですが、パレスチナ問題について、整理のため以下引用です。

==山川の世界史教科書からの引用==

パレスチナでは17世紀以降,オスマン帝国の統治下で主としてアラブ人が居住していたが,19世紀のシオニズム伸張の結果,ユダヤ人のパレスチナ移住が促進された。

一方イギリスは,第一次世界大戦中に戦局を有利にするため,ユダヤ人とアラブ人にそれぞれフサイン‐マクマホン書簡,バルフォア宣言でパレスチナにおける戦後の建国を約束した。

戦後,パレスチナはイギリスの委任統治下に入るが,ユダヤ人の流入でアラブ系住民との衝突が激化したため,イギリスは委任統治を放棄。

1947年国連総会はパレスチナをアラブとユダヤの国家に分割する決議を採択した。アラブ諸国はこれを拒否,翌年同決議にもとづきイスラエルが建国されると,同国に進攻した(第1次中東戦争)。

しかし4度にわたる中東戦争でも事態は解決せず,79年エジプトがイスラエルと単独平和条約を締結した。アラブ側の戦闘の主体は徐々に国家からパレスチナ解放機構(PLO)などパレスチナ人組織に移り,87年から民衆蜂起(インティファーダ)が始まり,翌年PLOは独立を宣言した。湾岸危機をへて,91年,マドリード会議(中東和平会議)が開催され,93年には暫定自治合意ができ,ガザ地区などでパレスチナ人による自治政府が活動を開始した。

==以上、引用終了==

つまりイギリスは、ユダヤにも、アラブにも、戦後の建国を約束し両方に良い顔をしたのです。さらにフランスなどとは戦争終結後は分割するという協定(「サイクス・ピコ協定」)を秘密裏に結びます。

この三つの協定は文言の解釈次第では、殆ど矛盾はしていないとする見方もあるようですが、現実にはユダヤ、アラブ、フランスにも都合の良いことを約束した三枚舌外交だと批判され、アラブとユダヤ衝突の発端となったのです。

今回のこの戦争状態が、世界経済や金融市場の大きなリスクに発展する可能性も懸念されます。今日、東京市場は祝日で休みですが、当面、アジアやヨーロッパの市場動向が気になります。

さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。
===2023.10.9===

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