ピン留めの惑星3_のコピー

私が触わっていい人

週末だけ手伝いに行く小さなワインバルのオーナーの三上さんには、もうずっと長いこと付き合っているカノジョさんがいる。

結婚はまだだけど、三上さんの左手の薬指にはいつも指輪が光っていて。日ごとどんなに彼に惹かれようとも、見えないバリアで私は決して三上さんには近づけない。今以上には1ミリも。

だけど───ぬか床をかき混ぜるときにだけ、彼は指輪を外す。

そのとき、そのあいだくらいは、三上さんとの恋を想像するくらいは許されるんじゃ、ないかな?

……そう思って、さりげなく彼を眺めながらいろんな想像をするのだった。

お店ではいつもノリ良く大笑いしながらお客さんの話に耳を傾けている彼だけど、家では一転、無口で。私は、読書かなにかしている彼にすり寄って、何も言わずにただ彼の二の腕に鼻を押し付けてじっとしている。じっと、ずっと……。

けれどもそんな想像も束の間。コトンとぬか床の蓋が閉まる音がしたらそこで終わり。

糠を洗い落としてしっとりと色白くぴかぴかになった三上さんの手の指に、またあの指輪がはめられていく。

それから───三上さんのお店は、私が職場の異動で週末も忙しくなってからは手伝いに行けなくなってしまった。
しばらくはたまにお店に遊びに行ってもいたけれど、いよいよ三上さんの結婚が決まりそうなある日に、今日はこれからめずらしくカノジョさんも店に来るってタイミングでいそいそと帰ってからは寄り付かなくなった。

だって、三上さんのカノジョには会ってしまいたくない。

それから、1年近くが経とうとしていた。
私は、フォローしている三上さんのお店のインスタグラムのDM経由で、思い切って彼へとメッセージを送った。この夏の猛暑でぬか床がダメになってしまったのだ。そしてその糠は、以前三上さんに分けてもらって大事に育てていた糠だった。

すると、深夜1時を過ぎた頃に返信が届いた。お店が閉店して、後片付けが終わった頃だろうか。

「ひさしぶり。こっちの糠は健在。また分けてあげるから近いうち店おいで。」

ドキンとした。今手に持っているこのスマホの、目には見えない通信網の先に、この夜を越えたどこか向こうに、彼がいる。

もう遅いから返事は明日にしたほうが良さそうだろうか? などと考えていると、「最近はどうなの」と彼から続けてメッセージが届いた。
最初のメッセージが送られてきてから7分後のことだった。

もしかしたらそれは、三上さんが私の返信を待っていてくれたかもしれない7分だ。
その7分があっただけでも、この不毛な恋が満たされたような気になったりした。

閉店時間間際のバルには、お客さんはもう皆帰ったあとで三上さんだけが洗い場で鍋物を洗っているところだった。

「どうですか、その後の結婚生活は?」
カウンターに促されて腰を下ろし、なんでもないように訊いた。

三上さんは、うーんと考えて天井を仰いだ。
そのあいだに私は、約1年ぶりの三上さんの眉や鼻や髪型やあごの髭をまばたきする毎に見ていって、襟元やまくった袖や、濃いグレーのエプロンにうっすら付いたしみ、それから左手を見た。

三上さんは指輪をしていなかった。

「気を使わなくていい“同居人”との“共同生活”って感じかな」
淡々と三上さんはそう答えた。

なんだよそれ、せめてラブラブであってよ。と、勝手に何かを台無しにされたような気持ちになりながら、細いシャンパングラスに注がれたスパークリングを飲み干した。

「俺も一緒に飲もうかな」

厨房の換気扇が消され、急に店内がしんとなる。エプロンを外しながらカウンターから出てきた彼が右隣に座った。

「もともと結婚願望はなくて俺。……離婚も想定してる、かな」

なんでそんなこと言うんだろう。なんでそんなことを三上さんは私に言うんだろう。

今、カウンターに肘をついたこの姿勢から少し右斜め後ろを振り返れば、椅子の背に寄りかかって座っている三上さんを見据えることができる。それから少し、右手をそっと伸ばせば、彼の腕に触れる。その腕につかまって彼に身を寄せていったら……キスとか。そうキスとか、この世の“好きな者同士”はそうやって、じぶんとは別の誰かに近づいてキスとか、するんだよね? でも私は、どうして。どうしてか全然、カラダが動かない。あゝ考えてみれば私には、触わっていい人がいない。

「三上さん。それでも三上さんが結婚している限り私、これ以上1ミリも動けないんです」

そんなことを言ってもどうにもならないのに、彼がどう反応するのか見てみたくもなって思い切った。
三上さんは、少しの間何も言わずに黙っていてから、口を開いた。

「だから損だなと思うよ、結婚してるのって」

1ミリも動けないのは三上さんも同じだった。

あの日もらって帰ったぬか床を、私はまたすぐにダメにした。
毎日かき混ぜて手をかけなければならないのに、手付かずのままにしてしまった。

三上さん。「損」って落ちのつけ方が、私はやっぱりよくわからない。

三上さんの言ったその言葉をゲシュタルト崩壊するくらいにどんなに考え尽くしてもわからなくて、いやわからないんじゃなくて腑に落ちなくて。

だって恋って、損とか得とかじゃなくないですか。三上さん。

空っぽになったぬか床の容器を綺麗に洗って、蓋をした。
私が触わっていいひとに、私は恋をしないといけない。この次は。


〜fin.〜


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『子供の頃から好きな食べ物』についてのエピソードを二人が振り返りました。

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