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『ファインマン物理学』誤植リスト

オンラインの「音読会」というものに参加している。毎朝、決められた時間にネット上で集まって、決めた本を順番に朗読していくのである。読みたいけれどなかなか手がつかない本などを無理やり読むのには適した方法であり、今回は『ファインマン物理学』全5巻(岩波書店)に挑戦して、仲間4人で毎朝20分集まって、ほぼ2年間で読破できた。余力がある人間は演習問題もいくつか解いて発表しており、それも含めての2年間であった。

『ファインマン物理学』は60年ほど前に奇才リチャード・ファインマンがカリフォルニア工科大学で行った講義をそのまま教科書に仕立てたもので、初級物理学から量子力学までを破天荒な構成と語り口で一気に説明してみせ、名著として名高い。日本では今も大学の教科書あるいは副読本に指定されているらしく、版を重ねている。解説本も出版されているほどに人気は高い。

ボンゴを叩くのが趣味だったファインマン(Caltech Archivesより) 
教室に持ち込んで学生に叩かせることもあったらしい。

ところが読み始めてみると、この教科書、違和感を覚えた箇所がちょこちょこと出てきて、Webで公開されている英文原文とも比較しながら調べてみると誤植・誤訳と断定できるものが結構ある。4人の仲間が持っている版はそれぞれ異なるので、互いに比較すると訂正されているものも確認できるが、最新版に至っても修正されていないものがたくさんのこっている。それをその都度メモして、読了後にまとめたのが、ここで公開する「ファインマン物理学誤植リスト」である。岩波書店の方でもう直してあるのもあるかもしれないが(特に第1巻については、1年半ほど前に岩波書店に連絡してあるのだ)音読会の「成果」として残しておく次第である。

これをまとめると以下のようになる:

  • 図版のトレースミス:17箇所

  • 明確な誤植・翻訳ミス:35箇所

  • 原文から間違っている?:3箇所

  • 刷版の掠れ・潰れ・汚れ:10箇所

  • 現在定着している訳語と異なる訳語を当てている:4箇所

  • 訳者の癖とも言えなくもないが文章がおかしい:10箇所

  • web公開版と違う版から訳している:1箇所

注意していただきたいのは、私たちは校正や校閲をしようとしたわけではないということだ。音読しながら違和感を感じた部分をピックアップして調べただけである。「ゴキブリを見たら、その20倍のゴキブリが家の中にいる」という教訓を敷衍すれば、実はかなりの数の誤植や翻訳ミスが『ファインマン物理学』には、いまだに残っているのではないだろうか。本腰を入れて校正校閲をやりなおせばゾロゾロとゴキブリ、、、ではなくて誤植や翻訳ミスが出てくるのではないか。

岩波書店ともあろうものがなんという体たらくなのであろうかとは思ったものの、私はひとまずはこれを好意的に捉えようとした。岩波書店は『ご冗談でしょ、ファインマン先生』のような本がシリーズで売れてしまったものだから、その勢いで『ファインマン物理学』という専門教科書に手を出してしまって失敗したのだと考えたのである。

専門教科書分野の出版は誰もができるというわけではない。医学のことをよく知らない人、つまり病名・薬品名・人体組織名などが体系的に頭に入っていない人に医学書の校正や校閲はできないのと同様、数学が頭の中に入っていない人に数学書や物理学書の校正や校閲はできない。たとえば今回、数式の中に$${{m^2}_0}$$というのがあった。文脈から$${m_0}$$の2乗のことなので、$${{m_0}^2}$$もしくは$${m^2_0}$$でなくてはならない。普段数式に慣れていない人間なら「似たようなものだから問題ないだろう」ぐらいにとらえてやり過ごす箇所だが、この種の数式を扱った経験があれば、すぐに引っ掛かる箇所である。

ということで「岩波も慣れないことに手を出したものだからこんなことになった」と考えたのだが、よくよく考えてみると、岩波書店は数学の分野で実績のある書店で、『岩波 数学公式集』は数学を使う研究者必携のベストセラーだし、「岩波数学叢書」なんてシリーズも出している。となると、科学啓蒙書を担当する部門(『ご冗談でしょファインマンさん』を担当した部門)が、経験不足のまま社内の応援も頼まず、数式満載の物理の教科書に手を出したということだったと考えざるを得ないのである。

加えて、翻訳文の拙さがある。「てにをは」レヴェルで間違えているなど、日本語として変なところが結構多いのだ。第1巻読了の段階で岩波書店に連絡したところ「ご指摘ありがとう。増刷するときに参考にします」という言葉と共に「訳文については翻訳者が物故者なので直せない」という釈明があった。それならそれで、変な日本語は翻訳者が生きているうちにきちんと直しておいていただきたかった。

なによりも各巻は発売以来40年近く増刷を繰り返し、いまや60刷近いのである。これを教科書に使ってきた大学の先生方は、気がついた誤訳誤植を岩波書店に報告・指摘してこなかったのだろうか?(まったく気が付かなかったとは、私は考えたくない。そこまで日本の大学の水準がひどいとは思いたくないのだ。)出版文化というものは、出版社と読者とが相互に支えて豊かになる。『ファインマン物理学』はそうなっていなかった残念な例のように思える。

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