小説 【誰かが誰かのS】了
「あ、摩子ちゃん親子だっ」
私は小さく叫んで、反射的につーちゃんの陰に隠れた。
教え子の摩子ちゃんとその母親は、スーパーのフードコートの、レジ最前列に立っていた。摩子ちゃんは、小さな手で母親のセーターの裾を握っている。私とつーちゃんは、その行列の最後尾に付いたところだった。
「挨拶しなくていいの?」
つーちゃんは、自分の背中にコバンザメみたいにくっついた私を振り返った。プライベートで園児親子に遭遇すると、なぜか私は決まってこそこそとしてしまう。
「しぃっ。いいのっ。今は、ただのれい子だからっ」
私は人差し指でつーちゃんの唇を塞いだ。
摩子ちゃんのママは会計を済ませると、ハンバーガーのトレイを持って、空いているテーブルに、脇目も振らず歩いていった。
その間も、摩子ちゃんは母親のセーターをしっかりと掴んでいるが、摩子ちゃんのママは、歩みを自分の子どもに合わせるそぶりが全くない。
「あっ!」
その瞬間、私の口から、思わず大きな声が出た。
テーブルまであと数歩というところで摩子ちゃんのママの肩からバッグが滑り落ち、その瞬間、彼女はバランスをくずし、持っていたトレイをひっくり返してしまったのだ。
ハンバーガーやポテトやコーヒーやジュースが空中に舞った。それらが母親に取り縋っていた、小さな女の子の上にばらばらと降りかかったのだ。
あたりに、麻子ちゃんの悲鳴と泣き声が響くのと同時に、母親の罵声がフードコート内に喚き散らかされた。
あんたがモタモタしてるから、こぼれちゃったじゃないの! どうしていつもママの邪魔ばかりするのよ。やっぱりあんたなんか連れてくるんじゃなかった。今度からひとりでお留守番だからね! ほら、お店の人がこっち見てる。おねえさんが怖い顔で睨んでるじゃないの、早く片付けなさい!
早く急いで! 早く! 早く! 早く!
摩子ちゃんのママは、怒りを自分の発する声に増幅させて、なおも興奮していく。
母親のヒステリックな声に、さっきまで楽しげにしていたフードコート内の人々が、叱られている子ども以上にフリーズしていた。そして誰もが見て見ぬ振りを決め込んで、平穏な風景に突如現れた異物のような母子を目に入れないようにしている。私自身も、冬枯れた田んぼの案山子みたいに突っ立っていた。
とその時、私の背中を押す温かな手のひらの感触があった。
つーちゃんだ。
「摩子ちゃんのところに」
そう一言、私の耳元で言うと、彼自身は、興奮して喚いている母親の方へ向かって真っ直ぐ歩いていった。そして、彼女の肩に手を掛け何かを囁くと、人目も憚らず彼女を抱きしめた。
摩子ちゃんのママは、吊り上がった目をつーちゃんに向けて何かを言いかけたが、口がぱくぱく動くだけで思うように言葉が出てこない様子だ。
その間もつーちゃんは、人々の避難がましい視線から母親を守ろうと、取り乱している彼女の身体をしっかりと抱きとめている。
彼女は、つーちゃんの腕の中でもがいていたが、しばらくすると雑言を吐いていた口をようやく閉じた。そして、怒り尖っていた肩を下げると、しだいにおとなしくなっていった。
つーちゃんに背中を押された私は、ヒューヒューと気管支から苦しげな息を吐き、震えて泣いている摩子ちゃんに近付いていった。一瞬躊躇ったが、腕の中にすっぽりと彼女を抱きくるめた。
小さな震える身体は、涙と汗とかすかなおしっこの臭いに、ジャンクフードの安っぽい油とオレンジジュースの甘ったるい匂いが混じって、せつない湿り気を帯びている。
「れいこせんせい……」
摩子ちゃんはしゃくりあげながら、切れ切れにそういうと、私にしっかりとしがみついてきた。
私は、大丈夫よ大丈夫よと繰り返し囁き続けた。
震える身体を抱きしめているうちに、私の内側からじんわりと何かが沁み出してきた。柔らかく穏やかで、温かなもの。とくとくと、自分に何かしら足りなかったところへ落ちていく。
「さっき摩子ちゃんのママになんて言ったの」
「大丈夫だよって言ったのさ。それだけ」
「え? じゃ、私と同じ」
何だか、私たち繋がってる。
「ねえ、つーちゃん」
「何?」
つーちゃんは、私の顔を覗き込んだ。
「どうして私がいいの?」
つーちゃんは首を傾げ、一瞬間、何事か思案していた。
「赤ちゃんポスト」
「赤ちゃんポスト?」
「そう、赤ちゃんポスト。入れられた時、生後六ヶ月くらいだったんだってさ。ずいぶん痩せっぽちだったらしいけど、ちゃんと小奇麗な服を着せられてて、おまけに〝次彦〟って小さなメモに書いてあったんだってさ。ポスト育ちで、親の付けた名前があるの、ボクだけなんだ」
私は思いがけない話に、ふーんと間抜けな返事をした。
「すごいでしょ? ボク捨て子なのに、ちゃんと親が付けてくれた名前があるんだ。他のやつらは、お偉い市長さんが名付け親だってのに。着てるもんも、澄んだ空色の可愛いらしいベビー服だったって、養護施設の先生が教えてくれたんだ。ただの青色じゃなくて、澄んだ空色だよ。ボク、それだけで親を許すことにしたんだ。痩せてたってことは、生活が苦しくって大変だったんだよ。ボクを生かすために、仕方なくポストに預けたんだろうなってね」
「良かったじゃない。こうしてちゃんと大きくなったんだからさ」
「誰も信じてくれないけど、捨てられた瞬間のこと覚えてるんだ」
「へー、六ヶ月の赤ん坊なのにすごいじゃん」
「桜が風に舞っててさ、赤ちゃんポストに寝かされたボクの澄んだ空色のベビー服の上に、ひらひらと落ちてきたんだよ。花吹雪、ものすごく綺麗だった。でも残念なことに、母親の顔ははっきりとわからないんだ」
「どうして?」
「空がめちゃくちゃ青すぎて、それ背負ってる母親の顔に、シャドーがかかってんだ」
「良かったじゃない。雨じゃなくてさ」
またしても、私の返事は見当違いだ。
「ハハ! ほんとだ、雨じゃなくて良かったな。それに次彦だからボクには、たぶんアニキがいるんだと思う。親が付けてくれたたったひとつの名前だけで、いろいろ想像できるんだ。それだけで、他のやつらよりしあわせだと思えたんだ。馬鹿だよね、おめでたくてちゃんちゃら笑えるよ」
「じゃあ、つーちゃんのお兄さんは一彦? 長彦? それとも太郎かもね。なんちゃって!」
ついに返事に困った私がふざけると、彼もおどけて私の肩を楽しげに揺すった。
「そうそう! 今頃アニキは、貧乏な親を養っててさ、毎日大変なんだよ。ボクはそれに比べたら、なんてお気楽なんだろう。こうしてれい子先生と、毎日楽しくやってられるもんね」
「マジお気楽に決まってるじゃん! プータローのくせに、この私と暮らせるなんて、いいご身分だわほんと!」
私は、ご主人様の立場上、つーちゃんの二の腕を強くつねった。イテッと叫んで彼は身を捩った。
全く、私って女は捻くれている。愛しいつーちゃんを今すぐ抱きしめたいのに、いつもの憎まれ口しかたたけなくて、私って女は本当にカナシイ天邪鬼だ。
「ボクさ、一応、地元の高校は出たんだけど、後はあちこちでいろいろとやって生きてきたんだ。でも、ずっとダメだった。何をやっても上手くいかないし、長続きしなかった。頭が悪いから他人からは馬鹿にされるしね。生まれつき不器用で怠け者なんだ。たぶんこれって、邪魔になった子どもを、赤ちゃんポストに捨てちゃうような親のDNAなんだと思う。それなのに、ゴミ同然の男なのに、れい子先生はボクを拾ってくれた。捨て子のボクを必要としてくれたでしょ。本当はとんでもなく中途半端なのにね。だからボクは、れい子先生の支えになるって決めたんだ」
「何よそれ。私の、サンドバッグでもいいってこと?」
「だからぁ、れい子先生は思いっきり仕事してよ。ボクが支えになるからさ」
「ったく、調子に乗るんじゃない!」
私は、お仕置きで、つーちゃんの腕に全体重をかけてぶら下がった。
つーちゃんは顔を真っ赤にして、スーパーの袋と私を両手に提げ、やじろべえみたいにバランスをとっている。
「でさ、れい子先生にお願いがあるんだ。えっと、ご褒美?」
私を地面に下ろすと、つーちゃんがはぁはぁと息を切らしながら言った。
「は? 何よ」
「スマートフォンの最新モデルがもうすぐ発売なんだ。今使ってるの、何となく調子悪いからさ。だからさ、いい?」
「はぁ? この前替えたばっかりじゃん!」
呆れた。いったいなんのご褒美なんだ? そういうのはおねだりっていうんだよ。言葉もまともに知らないのか、この男は。
私はグーでもって、つーちゃんの背中を思い切り小突いた。
「いってぇ!」
つーちゃんは天を仰いだ。
仕方ない。ご褒美で買ってあげようか……。
年下でプータローでヒモ男で……、その他にもつーちゃんはあれこれと本当にダメな男。
けれど私も、三十も半ばになろうとしているのに、そんなつーちゃんとお似合いの、〝超〟のつくダメ女なのだった。
でも、まあ、いいっか。それでもいいじゃない?
凸と凹でSとN。惹かれあった者同士 、今がほんの少ししあわせだったら、それでいいじゃない?
了
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