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小説【ブレインフォグの明日】②

 ワンルームの部屋中にゴミが散らかっていた。あちらにもこちらにも自身が撒き散らしたウイルスが付着している気がし、散らかった紙皿やティッシュやカップ麺の空容器など拾い集めゴミ袋に入れた。

 次の朝、まだ夜も明けきらない薄暗い中を、美那は辺りを見回しこっそりと部屋を出た。
 袋を両手に下げゴミ集積場に持っていく。コンテナの蓋を、音をたてないよう用心深く開けて袋を入れる。外階段を上がり部屋のドアの前に戻ったとき、美那は小さく悲鳴を上げた。

『コロナ バラマクナ!』

 手書きでそう書かれた紙が、ドアにガムテープで張られていた。鳥肌が立った。思わず振り返るが誰もいない。けれど、誰かが確かに美那を見ている。
 美那は急いで紙を引き剥がし、部屋に入り鍵をかけた。動悸が激しく打つ。部屋の灯りの下、チラシの裏側に殴り書きされたその汚い字を見ていると吐き気がした。見も知らぬ誰かの荒んだ憎悪に、指の先まで冷たくなる。

 憂鬱なことがまだある。それは失業したことを母に言わないといけないことだ。もう仕送りできないことを、はっきりと伝えなければ……。電話の向こうで、深いため息を吐く母の土気色をした顔が目に浮かぶ。毎月の仕送りは、十年以上働いていたのに満足に貯金が出来なかった一番の原因でもある。

 貯金通帳を開く。残高は確かめるまでもなく、八十万円と少し。十年以上働いてたったこれだけ……。一人暮らしの家賃もばかにならない。保険は県民共済のみ、今回の感染症で何かしらの給付金とか出るのだろうか。
 そう、まずは失業保険の手続きを一番にしないと、あそうだ、退職金だってあるはず、そう、あるはずだよね……、私、まじめに働いてきたんだもの。契約社員とはいえ、正社員と同様に働いてきたんだもの。

 大学を出てから約十一年間、印刷会社での経理事務をしていた。今思えば、なんでもいいから資格を取っておくべきだったと後悔が先に立つ。今の自分は防寒具のひとつも身に着けないで、寒風吹きすさぶビル風の通り道に立っているのと同じだった。

「コロナに罹ってそれで失業ってあんた、そんな恥ずかしいことになってたの! これからいったいどうするの」

 開口一番、想像どおりの言葉だ。母の声が大きすぎて、スマホを耳から遠ざける。

「仕事探すから」
「当たり前でしょ。こっちに帰ってきても、田舎だし仕事なんかありゃしないんだから。よりによってコロナだなんて、隣近所から何言われるか分かったもんじゃない」

「自分でなんとかするって」
「ほら、あんたからの仕送りだってさ、大丈夫なのかい?」

 母が心配しているのは、娘の体調でも今後のことでもない。

「失業保険も出るんだろ?」
「少しだけ。でもそれ私の生活費だからね」
「退職金は?」
「そんなのあるわけないじゃん。契約だよ?」
「まあ、ひどい会社だねぇ」

 自分の無心は棚に上げて、よく言うよ。

「ほら、うちもね、いろいろ大変なのよ。父さんの年金なんて、蓋を開けたらほんのちょっとしかないんだから」
「篤史に働いてもらえばいいじゃない」
「もちろん、あっちゃんも働くつもりでいるわよ、でもあの子にも、何かと考えがあるみたいだから」

 いやいや、何にも考えてないじゃん!

「母さん、私も大変なのよ。後遺症だってあるし、もう期待しないで。とりあえず二万円振り込むから、あとは自分たちで何とかして」

「美那ちょっと!」

 母の声をそこで遮って電話を切った。もう充分でしょ、母さん。脱力感だけが残る。

 実家は、父母と二十六歳で無職の弟の篤史との三人暮らし。生計は父の年金と、美那の仕送り三万円で立てていた。
 父は定年退職後、再雇用で数年働いていたが、今は悠々自適といえば聞こえがいいが、パチンコで時間をつぶし、日がな一日ぶらぶらとしている。
 母は根っから労働意欲のない人で、専業主婦であることに拘っていた。自分が家族を養うなど、みじんも考えたこともない人だ。

 弟もそんな父母に似て、随分な怠け者なのだった。
 高校卒業後、就職したもののすぐ辞めてしまい、友達とバンドを組んで、気まぐれにやり過ごしているのだった。母は、そんな弟を溺愛しているから始末が悪い。

 美那たちが小さな頃は生活費の不足分は、母の実家から援助を受けていたようだ。そんな、母に甘かった祖父は数年前に亡くなっていて、それで、その次に頼ったのが社会人となった娘の美那というわけだ。
 美那が就職した途端、無心が始まった。
 
あっちゃんのバスケのユニフォームが新しくなるのよ、あっちゃんが車の免許を取りたいんだって、あっちゃんが成人式なのよ、あっちゃんが、あっちゃんが、あっちゃんが……、美那、ねえ、なんとかならない? 

 でももう、それもおしまい。自分のことは自分で始末をつけてね、母さん。私は、私自身を始末しないといけないのだから。

 年末年始は、本物のひとりぼっちだったが美那は清々と過ごしたのだった。例年、正月休みは帰省して大掃除から母にこき使われ、大の大人三人にお年玉を無心され、正直なところ胸糞悪くて仕方なかった。

 アパートの床に長々と横たわってひたすら眠る。まだだるさが残り相変わらず食欲もない。腹を満たすためだけの食事は、ただ無心に咀嚼だけを繰り返す牛と同じ。テーブルの上の出来合いのおせちはすっかり干からびていた。

 いや、それよりも危うさを感じるのは、匂いを感じないことだ。自身の体によくない物質なのかどうか、無臭の世界の中でそれを察知出来ないことが、こんなにも怖いことなのかと改めて気づかされるのだった。
                        
                             ③につづく

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