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村上春樹『街とその不確かな壁』への川口事件の残響とコロナ経験


1.

友人と飲んだ帰り道、通りで上品な老婦人に声をかけられた。聞けば、こちらに越してきたばかりで道がわからなくなってしまったのだという。案内する道すがら、近所のドイツ料理屋のおかみさんが共通の知り合いだとわかり、そのまま店でビールを奢ってもらうことになった。その老婦人はもともとクラブを経営していたのだが、結婚して店を閉めたのが数十年前。そしてついこの間、長年連れ添った旦那さんがコロナで亡くなり、持家を売払って近所のマンションに越してきたのだという。

コロナにかかってから3日で、その旦那さんは亡くなったという。僕が呆気ないですねと言うと、彼女はそうやなとこたえた。だけど、人が死ぬことが呆気ないとかあるとか、今日会ったばかりの他人がそんなことを言える立場にあるだろうか。その日のあとコロナにかかって部屋で横になりながら、そんなふうに言うべきではなかったと後悔した。

 コロナについて話されることは少なくなった。少なくとも世間的には。2年前はよく行く定食屋のテレビもコロナだけを話題にしていたのに、この前は高校球児が頭を剃るべきかどうかというテーマについて30分近く議論していた。


2020年に大学に入学してまもなく、大学が全面オンライン化した。サークル・部活動の対面による新歓もじきに禁止された。友達が大学にあまりいないのでよくわからないが、おそらくサークルに全く所属しないままの学生も、同期にはそれなりにいたのではないだろうか。

毎日がわりあい暇になる。4月は授業がなかったし、5月以降もオンライン授業だった。しかし暇だからといって部活もサークルもない。結局、お酒と麻雀という素敵な思い出だけが残った。

これはいつ終わるのだろうと思っているうちにいろいろあって3年余が経った。コロナはある日急に終わるのではなく、徐々に終わっていった。あるいは今も続いているのかもしれない。

同期の友人と話すと、「何かが失われた感」ともいうべき感覚は意外と共有されている。だが、僕は一浪して2020年入学だったが、現役で入学した2019年入学の高校の同期は「なんじゃそりゃ」という感じらしい。また現役で2021年に入学した人にとっては、高校の三年目に「コロナ」が直撃したことになり、その感覚は私にはわからないものだと思う。何が言いたいかというと、コロナ経験というものは大学生にとり、入学年が1年違うだけで全く異なりうるということだ。

大学の卒業が近くなって、自分にとってのコロナ経験をなんらかの形で総括したいと思い始めているが、上手い方法が見つけられずにいる。


2.

村上春樹『街とその不確かな壁』は、コロナが猛威を振るう中で書かれた。彼は「あとがき」でこう書いている。

二〇二〇年は「コロナ・ウイルス」の年だった。僕はコロナ・ウイルスが日本で本格的に猛威を振るい始めた三月の初めに、ちょうどこの作品を書き始め、三年近くかけて完成させた。その間ほとんど外出することなく、長期旅行をすることもなく、そのかなり異様な、それなりの緊張を強いられる環境下で、(かなり長い中断=冷却期間を間に挟みはしたが)日々この小説をこつこつと書き続けていた(まるで〈夢読み〉が図書館で〈古い夢〉を読むみたいに)。そのような状況は何かを意味するかもしれないし、何も意味しないかもしれない。しかしたぶん何かは意味しているはずだ。そのことを肌身に実感している。

『街とその不確かな壁』「あとがき」pp. 660

この作品の唯一の参照先として『コレラの時代の愛』が挙げられている。作中では「コロナ」は一言も出てこないが、「コレラ」という言葉を経由して、間接的にコロナに言及しているのだろうか。

作中では、主人公が知り合う添田という女性が、好きな本として『コレラの時代の愛』を挙げる。そこから引用されるのは、女の亡霊が主人公たちに手を振るシーンだ。だがこの亡霊は、「超常現象」として書かれるのではない。ガルシア=マルケスは、現実と非現実的な現象とを物語の中で等価に扱う。『街とその不確かな壁』では、この手法が一般にマジック・リアリズムと呼ばれること、だがそれは、ガルシア=マルケスにとってはあるがままの世界なのではないか、という雑談が行われるだけである。村上はここで、『コレラの時代の愛』には、一見して単なる話の種としての役割しか与えていないように思える。だがここには、彼が意図するとせざるとにかかわらず、それ以上の関連がある。それは彼の大学時代のある体験に始まるものだ。

『対論1968』のなかで、絓秀実は『街とその不確かな壁』のもとになった同名の中編作品について、次のように言っている。

絓 しかしおそらくは、川口事件を引き起こすような早稲田の環境というものを、壁に囲まれてほとんど死んだようになってる”街”に仮託して書いてるんじゃないか…というふうに読めるんだよね。あくまでも”読める”というにすぎませんが、『海辺のカフカ』では明確に川口事件について書いてるんだしさ。

『対論 1968』pp. 171

 1972年、早稲田大学の教室内で一人の学生がリンチの果てに殺された。被害者の名前は川口大三郎。敵対セクトのメンバーと間違われて革マル派に尋問され、全身打撲によりショック死したという凄惨な事件である[1]。村上が早稲田大学に入学したのは1968年で、この事件があった当時に現役の学生だった。これは村上にとってトラウマ的な体験であり、『海辺のカフカ』ではこの事件にほぼ明示的に言及している。事件が起きた大学『世界の終り』そして『街とその不確かな壁』の「壁の中の世界」とは、そのような事件が起こるような大学の環境を描こうとしていたのではないか、というのが絓の指摘である。

だが村上春樹と川口事件の繋がりは、村上を高く評価する論者たちによっても、今まで全く無視されてきたようである。

絓 (…)膨大な村上春樹研究があるにもかかわらず、この川口事件との関係が論じられていない様子なのは、むしろ奇っ怪です。理由はあると思うが。

『対論1968』pp. 172

 絓がこのようにいう時、「川口事件との関係を論じない」研究者として一番に念頭に置かれているのは、彼と同年代の加藤典洋だろう[2](絓は1949年生まれ、加藤は1948年生まれ)。

なお、「加藤はなぜ川口事件に触れないか?」という同様の問いに始まり、加藤の自伝を検証する記事がある[3]。それによると、著者の金原は未発表原稿の「村上春樹と早大闘争」を同人誌に掲載予定らしい。その原稿の註解では、加藤典洋編著の『村上春樹イエローページpart2』(2004年)第五章の『海辺のカフカ』論に触れており、「[「佐伯さん」の恋人のエピソードについて、]膨大な量の文章と解析をかけて、なぜ、加藤らは目に見える眼前の物事を見事に無視するのか。これは意識的な(あるいは無意識的な)ネグレクトと回避ではないのか?」(金原「アナクロ書評」、[]内筆者)という疑念を表明している。本稿の関心もまさにこの点にあり、本稿はその疑念を展開する試みの一つである。

さて、加藤は村上春樹については数多くの評論を上梓しているが、ここでは特に、『テクストから遠く離れて』所収の『海辺のカフカ』論を取り上げておく。先に言っておけば、そこには川口事件についての言及はない。だがそこで言及がなされないのは、彼の論の展開から言って不自然である。やや遠回りになるが、これは、村上と川口事件との連関がどのように通過されてきたのか、ということを確認する一例になる。


加藤は本書で『海辺のカフカ』論を展開するのに先立って、「Ⅰ 「作者の死」と『取り替え子』」自身の読み方のスタンスを、テクスト論との関係の中で規定している。

テクスト論とは「テクスト」すなわち書かれたものは作者とは無関係に、それ自体として存在するという観念を表現している。だから、テクスト論は作品を創造しその意味を決定しうるような「作者」という存在を消去する「作者の死」という主張をしばしば伴う。加藤はこのようにテクスト論・「作者の死」を整理した上で、彼独自の観点として作品の背後に「作者の像」を想定する「脱テクスト論」の考え方を提示する。それは実体としての「作者」を批判するテクスト論の立場を受け継ぎつつも、「作者」の存在を何らかの形で問題にするための理論である。

ところで加藤は、「作者の像」のアイデアを説明する際、言表行為という観点からこれを説明している。その理路は複雑だが、私の観点から説明するなら、こうである。言表行為とは要するに我々が普段行っている発話行為そのものであり、加藤はそれをある一人の人間が小説を書くという行為とパラレルなものとして捉えている。言表行為では、①発話者、②発話者が言ったという事実、③発話者が言った内容、④それを聞く者という、4つの要素を取り出すことができる。例えばAがBに「寒いね。」と言ったとしたら、①A、②Aが発話したという事実、③「寒いね。」、④B、というふうに分解できる。『海辺のカフカ』の場合なら、①村上春樹、②村上が書いたという事実、③『海辺のカフカ』、④読者、ということになる。

さて、テクスト論が批判の対象としている作者還元主義は、「作者=神」、すなわち作者が作品世界の全ての意味について決定権をもち、読者は作品という媒介を通じて彼の「メッセージ」を受け取るのだという主張をなす。「寒いね。」という発話に対して「どういう意味?」と聞き手が聞けば、例えば「外気温が以前に比べて低く、それに対する生理的な反応を私が意識しているということだ」のような応答を得られる。このように、発話者には自分の発話の意図を細かく説明する準備があり、聞き手もそれを発話の正しい意味として受け止めるという合意が暗黙のうちになされている。

これに対してテクスト論は、①の作者を言表行為の外側に置き(「作者の死」)、②〜④において完結させようとする。「寒いね。」という言葉の意味の決定に関して、発話者はもはや特権的な地位になく、もはや発話者はいなくても良いとまで言える。「寒いね。」が「外気温が…」という意味なのか、「早く暖房をつけてよ」という意味なのかを決定するのは受け手の側であると考えることで、作者ではなく、③の作品のみに立脚した分析を行うことができる、ということになる。

では加藤の提示する「脱テクスト論」はどうなるのか。彼はまず、①「作者」の存在を言表行為の内側に呼び戻す(「作者の復活」?)。しかしここでの「作者」の存在論的な身分は、あくまで読者が勝手に想定する仮象(「作者の像」)というものにすぎない。ここで、作者に対してテクストをより重視する、という意味において、加藤はテクスト論の立場を引き継いでいる。だが他方で、作者を言表行為の外に置くことを拒否する、彼によれば、発話者のいないテクストとは「クリプキのパラドックス」[4]のようなもので、最終的な意味を決定することができないものである。そこで彼は「作者の像」の観念を持ち出す。いわば、「寒いね。」という言葉の解釈のために、それを言った人に意味は尋ねないけれど、しかし言葉の意味決定のためには、発話者が(例え幻でも)そこにいてくれることが必要だ、だからそういう仮想の「作者」をハリボテとして置いておこう、と言っているようなものだ。作者の像はここで、パラドックスを回避するための審級として要請されているにすぎない。しかし私には結局「現実の作者」(現実世界に存在する「村上春樹」)まではいかなくとも、「像」よりもリアルな境位に「作者」を置くしかないと思われるが、どうだろうか。

さて、加藤は第1章でこのようなスタンスを提示し、第2章の『海辺のカフカ』分析でもこれを引き継ぐ。だが加藤は奇妙にも、川口事件については口をつぐむ。

『海辺のカフカ』における川口事件を想起させる記述とは、次のものである。

20歳のときに佐伯さんの恋人は死んだ。『海辺のカフカ』が大ヒットしている最中のことだ。彼の通っている大学はストライキで封鎖中だった。そこに泊まりこんでいる友人に差し入れをするために、彼はバリケードをくぐった。夜の10時前だった。建物を占拠している学生たちは、彼を対立セクトの幹部とまちがえて捕まえ(顔がよく似ていたのだ)、椅子に縛りつけて、スパイ容疑で『尋問』した。彼は人違いであることを相手に説明しようとしたが、そのたびに鉄パイプや角棒で殴りつけられた。床に倒れると、ブーツの底で蹴りあげられた。夜明け前には彼は死んでいた。頭蓋骨が陥没し、肋骨が折れ、肺が破裂していた。死体は犬の死骸みたいに道ばたに放りだされた。2日後に大学の要請があって機動隊が構内に突入し、数時間であっさりと封鎖を解除し、何人かの学生を殺人容疑で逮捕した。学生達は犯行を認め、裁判にかけられ、もともとの殺意はなかったということで、二人が傷害致死罪で、短い懲役刑を宣告された。誰にとっても意味のない死だった。

『海辺のカフカ(下)』pp. 336-337

村上はこのような「説明」に非常に長けた作家だが、それにしても、ここでの「事件」の記述には、過度なまでの具体性が現れていないだろうか。「10時前」という時刻の設定に始まり、「椅子に縛り付けて(…)蹴り上げられた。」までの暴行の仔細、「頭蓋骨が(…)破裂していた」という外傷の記述。「2日後に(…)宣告された。」という、事後の経過の要約。実際の川口事件との相違点も何点かあるようだが[5]、ここではそれは問題ではない。重要なのは、村上が同じ早稲田の学生として事件を経験したということを知る者ならこの描写が川口事件をモデルとしているとしか考えられないということ、そして、記述の具体性の強度の高さが現実のレポートと見なしても遜色ないところまで達していること、この二つのことだけである。この箇所では、テクストを読む我々の前に、唐突に「作者」村上春樹の顔が現れる。インタビューや小説の中で、村上は川口事件という名前を出したことは一度もない。しかし他方で、明らかに川口事件に取材した記述を、ここまでの緻密さをもって書かざるをえない。右手で何かを提示しつつ左手で隠すかのようなこの身振りが、川口事件が村上にとって「トラウマ的」だと我々が判じるゆえんだ。

さて、いま問題となっていたのは、『海辺のカフカ』の記述と、加藤の評論との関係だった。第1章で加藤は、小森陽一・渡部直己・山城むつみら「テクスト論者」たちによる大江健三郎『取り替え子』読解の批判を展開している。ここでは小森に対する批判を見ておく。

『取り替え子』の登場人物は、その経歴からして、明らかに作者大江または彼の周辺人物を想起させる。例えばノーベル賞らしき「国際的な賞」を受賞しているという主人公古義人は著者・大江自身としか思えないし、映画監督である親友・塙吾良は大江の友人である伊丹十三としか思えない、というふうに。さらに加藤は、作中で若き日の大江自身の写真を挿入するというこれまたメタ物語的な表現を「これまで世界の誰も行わなかったような『[小説]文法』の踏み破り」([]内筆者)と高く評する。しかし「テクスト論者」である小森はこれを「モデル小説」として捉えることを自制する。実在の人物に取材したものとして受け取ることは「スキャンダル読み」として排除されるのだが、加藤はそのような小森の態度を槍玉にあげる。ここで両者の賭け金となっているのが「モデル性」である。

一人の読者が、このような小説を前にして、たとえば主人公古義人は大江健三郎自身の(彼をモデルにした)分身であり、自殺した映画監督で古義人の義兄でありかつ友人である吾良は伊丹十三の(彼をモデルにした)分身であり、古義人の妻のモデルは大江夫人、知的に障害をもち作曲をする古義人の息子アカリのモデルは大江光だと、感じてしまうとする。つまりこの小説を「モデル小説」だと感じるとする。その場合、このことは、そもそも、先の下卑た好奇心を発動させるゆえんだとして、「倫理」的に「戒められなければならないこと」なのだろうか。また、彼が、そう感じ、その読後感に照らしてこの作品を論じることは——たしかにテクスト論の構えからいうと禁足違反ということになるが——、その作品の読みとして、批評として、不当なものを含んでいるのだろうか。
正当な作品批評は、このモデル性ともいうべきテクストと現実の連関を考慮に入れるべきなのだろうか。そこは、考慮に入れるべき、ではなく、考慮に入れてもよい、なのだろうか。それとも、考慮すべきでない、なのだろうか。

『テクストから遠く離れて』pp.30-31

小森と対照的に、加藤はモデル性を考慮に入れるべきだという立場をとり、作品批評においても現実の次元を問題にしうる方法を模索していくことになる。だがその方法によるならば、彼は佐伯さんの恋人の死について言及すべきだった。なぜなら『海辺のカフカ』において唐突に現れる生々しい事件の描写は、加藤が他の論客を批判する際、自身が依って立つところの『取り替え子』で唐突に挿入される写真に類比的だからだ。事件の描写は、そして「佐伯さんの恋人」が川口大三郎をモデルとしていると読みたくなる我々の欲望を刺激することは、加藤の論の枠内において間違いなく考慮に値したはずだ。


3.

加藤を離れ、『街とその不確かな壁』へと戻ろう。

はじめに、『街とその不確かな壁』という作品の成立の過程について少し確認しておきたい。1980年に「街と、その不確かな壁」という中編小説が「文學界」で発表された。しかし「内容的にどうしても納得いかず」、書籍化されなかった。1982年に『羊をめぐる冒険』を書き上げたあと、「街と、その不確かな壁」の大幅な書き直しとして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に着手し、1985年に出版された。そして2020年、『世界の終り』とは「異なる形の対応があってもいいのではないか」との思いから、『街とその不確かな壁』に着手することになった。(『街とその不確かな壁』「あとがき」pp.657-659)

『街とその不確かな壁』では、「街」は壁に囲まれていて、その中を影を持たない人々が暮らしている。人々は概して親切だが、そこには何か感情が欠けているかのようである。「私」は街に入った時に影を切り離される。はじめは少し戸惑いつつも、街の中で「古い夢を読む」という役割をこなす中で街というシステムに慣れていく…というのが大まかなあらすじだ。『世界の終り』との相違点をひとつ指摘しておくとすれば、「街」の成立経緯が異なる。『世界の終り』では主人公の自意識が形成したものだが、『街とその不確かな壁』では「ぼく」の昔の恋人である「きみ」の中にあり、それを成長した「ぼく」=「私」が引き受けるという構造になっている。

さて、その街の中でも「獣たち」の存在は少し異様である。彼らは普段は門の外の広場におり、羊飼い的な存在である「門衛」によって統率される。彼らが異様なのは、死や生とも無縁の無時間的にも思える街の中で、彼らだけは生と死を繰り返す、循環的な時間を生きているからだ。

「しかし春の初めの一週間だけ、獣たちが激しく争う姿を見るために人々は進んで壁の望楼に上るということだ。獣たちはその時期、普段の姿からは想像もつかぬほど荒々しくなり、牡たちは牝を巡って、餌を食べることも忘れ、死力を尽くして闘う。うなり声を上げながら、先の鋭い単角を競争相手の喉や腹に突き立てようとする。
その交尾期の一週間だけ、獣たちは街の中には入ってこない。街の人々に危険が及ばないように、門衛が門を閉ざしてしまうからだ(従ってその期間は朝夕の角笛も吹き鳴らされない)。少なからざる数の獣たちが争いのなかで深手を負い、中には命を落とすものも出る。そして地面に流された赤い血の中から、新しい秩序と新しい生命が生まれる。柳の緑の枝が春先に一斉に芽吹くのと同じように。」

『街とその不確かな壁』pp. 20-21

血を流して戦う獣たちの姿と、それを眺める人々の在り方は対比的だ。街の内部には死んだように生きる人々、逆に生きる生命を賭して戦う獣たちのは街の外に置かれている。

獣について、もう一箇所引用しておこう。

「壁に沿って設けられた望楼に立ち、夕暮れの角笛を私は待つ。太陽が沈む少し前の時刻に、角笛は長く一度、短く三度吹き鳴らされる。それが決まりだ。
(…)
 角笛の最後の響きが空中に吸い込まれて消えたとき、彼らは前脚を揃えるようにして立ち上がり、あるいは伸びをして姿勢を整え、ほとんど時を同じくして歩み始める。いっときの呪縛は解かれ、それからしばらく街の通りは、獣たちの踏みならす蹄の音に支配される。
 獣たちの列は曲がりくねった石畳の通りを進んでいく。誰が先頭に立つというのでもなく、誰が隊列を導くというのでもない。獣たちは目を伏せ、肩を小刻みに左右に揺らしながら、沈黙の川を下っていくだけだ。それでも一頭一頭のあいだには、打ち消しがたい緻密な絆が結び合わされているように見える。
 何度か眺めているうちに、獣たちの辿る道筋や速度が厳密に定められているらしいことがわかる。彼らは仲間をあちこちで群れに加えながらなだらかなアーチ型の旧橋を渡り、鋭い尖塔のある広場まで歩く(そこにある時計台の時計は、君が言ったとおり、針が二本とも失われている)。そこで川の中洲に下りて緑の草を食んでいた少数の集団を加える。川沿いの道を上流に向けて進み、北にのびる涸れた運河づたいに工場街を抜け、森で木の実を探していた一群を拾い上げる。それから方向を西に変え、鋳物工場の屋根付きの渡り廊下をくぐり、北の丘づたいに長い階段を上る。」

『街とその不確かな壁』pp. 18-19

 獣たちは笛を合図に、群れをなして歩み始める。だがこれは現実の動物のそれとは異なっている。動物が街中の「石畳の通りを進んでいく」ということそれ自体は現実にもあり、例えば奈良公園周辺に行けば見られるものだ。だがそれらが群れをなして、それも毎日行われることはない。さらに「獣たちの辿る道筋や速度が厳密に定められている」という記述も、「獣」としては違和感のある記述だ。獣たちは誰に追い立てられることもなく、「誰が隊列を導くというのでもなく」そのような規律を守っている。そして「私」はそれに「緻密な絆」を見てとっている。

 規律に従い街を闊歩する「獣たち」。これはデモ隊のことではないだろうか。獣たちとは運動に参加する学生たちのことで、望楼からそれを眺める「私」とは、学生運動に対してある「傍観者」であった村上自身が重ね合わされているのではないだろうか[6]。

 そして彼らが血を流して争うことも、内ゲバのことではないかと思える。川口事件が起きたのは、まさにそのような内ゲバが先鋭化する中でのことだった。

 ところで私は先に、命を賭して戦う獣たちと、それを望楼から眺める「私」を含む人々という二つは対比的だと述べた。死んだように生きる人々が内部にいる一方で、死にうる獣たちは街とその外部を往還する(獣たちが生息するのは門の外の広場である)。それは学生運動という文脈で言うならこうだ。学生運動にコミットする者たちが一方にいて、中には実際に死ぬ者たちがいた。他方には、それを傍観する者たちがいた…

 しかし注意すべきは、獣たちは(あるいは運動家たちは)外部に出ているように見えて、それは実は外部ではないということだ。いや、そもそも街に外部などないのだ。街が壁で仕切られていることは街が内-外に区別されることを意味していない。「壁は完璧である」なら、その完璧さとは外部を想像することすらも許さないということを含むはずだからだ。

 だが『街とその不確かな壁』は、この様な内部と外部に関する考察に肩透かしを喰らわせる。

私は言った。「しかし、もし仮にぼくがここを立ち去ることを望んだとして、具体的にどのようにすればそれが可能になるのだろう?この高い壁に厳重に囲まれた街から出て行くことは、決して簡単じゃないはずだ」

「そう心に望みさえすればいいのです」と少年は静かな声で私に告げた。「この部屋のこの短いロウソクが消える前にそう望み、そのまま一息で炎を吹き消せばいいのです。力強いひと吹きで。そうすれば次の瞬間、あなたはもう外の世界に移っています。簡単なことです。(…)」

『街とその不確かな壁』pp. 648

 ラスト・シーンで「私」は街から出ていくことを「心に望み」、ロウソクの炎を吹き消すことだけによって街の外部へと出ていく(ように思われる)。ここでは外部が容易に到達可能な対象となってしまっているのである。

 この論点自体は新しいものではない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に関して、次の笠井の指摘がある。

自意識[街]とその外部[現実]が、「世界の終り」の物語のように実体的に対立させられたとき、それは内部にとどまるか外部に脱出するかという倫理的難問を装った選択問題に転化する。だが、このような選択問題に倫理的な意味はない。
(…)
内部と外部の二項対立になど、いかなる意味でも現実性はない。内部が存在するのだとしても、内部が存在するようには外部は存在しないからだ。外部は存在しない。だから、内部から外部に脱出することも不可能である。

笠井潔「鼠の消失——村上春樹論」『球体と亀裂』pp. 306、[]内筆者

 『世界の終り』においても、街を形成しているのは自身の自意識であることの責任を引き受けるために、分身である「影」のみを外に出し自身は街に残ることを選択する。『街とその不確かな壁』では自身も街を出て行く。この二つの結末は真逆に思える。しかしやはり、内部-外部を選択可能な問題としている点において、笠井の批判は依然有効なのである。そしてそれは、村上が同一のテーマを書き換える中で、年月を経てもやはり同じ結論に至ってしまったことを意味する。しかし私にはそれはやはり受け入れられない。コロナの経験とは私が思うに、外部を途絶される、「内部しかない」という絶望に関するものだったからだ。

 『街とその不確かな壁』を読みながら、ふと思ったことがある。この街において、死ぬことは一つの外部性なのではないかと。獣たちだけが死にえて、街の人々は死に関して何も語らない(おそらく彼らは死にえない)のだとしたら、死ぬことに賭けてみる価値はあるんじゃないか。

 しかしそれもやはり、生に対して死を対置する選択問題になっているだろう。そのようにして虚構された「死」は内部の論理に従って形成されたものであり、それはもはや外部ではない。では、外部を持ち出すことが選択問題にしかならず、それゆえ内部と外部に関する考察は意味がないのだとしたら、すべての選択を宙吊りにしておくしかないのだろうか。村上による「街」のイメージは内部と外部という問題とは切り離せない。とすれば「街」は、そのような隘路に陥るほかないのか。

 『街とその不確かな壁』が唯一の参照先とした『コレラの時代の愛』はしかし、そうではないということを教えてくれる。若き日に恋に破れたフロレンティーノ・アリーサは、五一年九ヶ月と四日、もう一度フェルミーナ・ダーサに告白をする機会を待ち続け、ついにそれを果たす。女は夫を失ったばかりで、子も孫もいる。老いさらばえた二人を載せて、川船が大河を航行する場面で、物語は幕を閉じる。以下はそのラスト・シーンである。

船長はフェルミーナ・ダーサに目を向けたが、その睫は冬の霜の最初のきらめきをたたえていた。次いでフロレンティーノ・アリーサに目を戻すと、その顔からは揺るぎない決意と何ものも恐れない強い愛が読みとれた。限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか、と遅ればせながら気づいた船長は思わずたじろいだ。
「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」フロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヶ月十一日前から、ちゃんと答えを用意していた。
「命の続く限りだ」と彼は言った。

『コレラの時代の愛』pp.502

 彼らに残された時間はわずかしかない。しかしフロレンティーノ・アリーサは絶望していない。彼はこの一言で、フェルミーナ・ダーサと最期を過ごすという選択を、その人を愛そうと誓い始めた日から今日までの時間の中に置き直している。「いったいいつまで続けられるとお思いですか?」という船長の問いは、彼にとっては「いつまで彼女を愛することができるか?」という形で「五十三年七ヶ月十一日前」にはとっくに問われていたことだった。そしてその問いを五十余年生き続けた。「命の続く限りだ」という一言は、死に対して生を選ぶことではない。彼は今までそのように生き、そして最期までそう生き続けることを宣言したにすぎない。

 そしてこれは、私にとって『街とその不確かな壁』の最後に代替されるべき結論のように思われる。「私」は「きみ」のために生きてきた。そして命の続く限りそう生きるのだと、「私」も言えばよかったのだ。たとえ「きみ」に二度と会えないのだとしても。


<参考資料>

笠井潔『球体と亀裂』、情況出版、1995年

笠井潔・絓秀実・外山恒一『対論1968』、集英社新書、2022年

加藤典洋『テクストから遠く離れて』、講談社、2004年

ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』、木村榮一訳、新潮社、2006年

金原甫「アナクロ書評 加藤典洋『オレの東大物語』(2020年)(上)」, 2023/1/5, https://note.com/geldfeld28/n/ne8f2a5102835 , (最終閲覧:2023/10/19)

戸宏. "川口君事件の記憶-松井今朝子『師父の遺言』と村上春樹『海辺のカフカ』". 川口大三郎君追悼資料室. 2014/11/15. https://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchi_013.htm , (最終閲覧:2023/10/6)

猫飛ニャン助 . (2019年、4月28日) . Retrieved from https://twitter.com/suga94491396/status/1131558821514452993?s=20

樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』、文藝春秋、2021年

村上春樹『街とその不確かな壁』、新潮社、2023年
————『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)(下)』、新潮文庫、2010年
————『海辺のカフカ(上)(下)』、新潮文庫、2005年



[1] 詳細は、樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』を参照。

[2] 絓は「猫飛ニャン助」というハンドルネームで、Twitter上ではこのことについてより明示的に言及している。

猫飛ニャン助 . (2019年、4月28日) . 「村上春樹が黙説法で語っているのが革マルの事なのは、『海辺のカフカ』の川口事件はじめ状況証拠も多数出た。そのことを辻信一(川口事件の準主犯)の「友人」であり、かつ、春樹の理解者も自認していた加藤典洋は知っていたはずだが、なぜ隠していたのか。」Retrieved from https://twitter.com/suga94491396/status/1131558821514452993?s=20

[3] 金原甫「アナクロ書評 加藤典洋『オレの東大物語』(2020年)(上)」。「村上春樹と早大闘争」掲載予定の雑誌は新型コロナウイルスの影響により編集作業が滞っているとのことだが、一刻も早い発表が待たれる。

[4] 「2、4、6、8、10…」という数列が与えられて、この次に来る数を答えよ、と聞かれたとする。それには普通、「12だ」と答えるだろう。だが発題者によれば答えは「14」だという。数列は、「10、14、18、22…」と続くのだという。聞いてみると、この数列は10より小さい数には2ずつ足し、10以上の数に対しては4を足すものであると言う。そのようなことを言い出したら、「1」でも「3000」でも、それが答えだと言い張れることになってしまう。さて、ここで示されるのは、「答え」は確定できない、というパラドクスであり、それ言語に置き換えれば、言葉は意味を持ち得ないという帰結をもたらす。加藤が竹田青嗣を引きながらこのパラドクスを回避できるとしているのは、回答者の目の前には「発題者」がおり、その発題者が回答を与えることができる、ということだ。加藤の脱テクスト論的な立場によれば、物言わぬ「作者の像」を置いておきさえすれば、意味が決定不可能になる事態を避けられる、ということになる。

[5] 村上の記述と川口事件の細かい事実関係に関しては以下を参照。戸宏. "川口君事件の記憶-松井今朝子『師父の遺言』と村上春樹『海辺のカフカ』". 川口大三郎君追悼資料室. 2014/11/15. https://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchi_013.htm , (最終閲覧:2023/10/6)

[6]  早稲田キャンパスの地理も、この記述に符合していると言えなくもない。大隈庭園の中に小さな川と橋があり、それを下ると時計塔のある大隈講堂につきあたる。だからこの獣たちは早稲田を歩いている…とまでは言えないが。

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