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workshop circus / 現表、現成、現出、原理のための試論

#これは 、2021年2月7日に静岡県浜松市で行われたイベント『workshop circus』の報告書として書かれたものです。

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木材を見、手に取り、組み合わせる。体験者は、たとえ自覚的でないとしても、自らの受動性と能動性が、それぞれ明らかに異なる地平を持つことを感じているに違いない。その度、バラバラになる自我を統一する何かが、その間ずっと働き続けている。わたしたちが、いつも自分自身を同一的なものとして見つけ出すことができるのは驚くべきことだ。色を見、選び、塗る、削る。バラバラの知覚が、自らの裏面を常に刺激している。わたしたちは、目で見たもの=色が、手で触れたもの=素材とは別のものであることを知覚している。それにも関わらず、わたしたちは、そのバラバラの色と素材が同じ一つものに帰属するものであることを理解する。
作業は、何かを目指されて始められるのか。目指されるものは、どのようにしてその可能性を体験者に開示したのか。加工されたものは見られ、置かれ、その度に全体性と統一性のための問いに応える。「わたしは今どこにいるのか」と。

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ある体験を記述するにあたって、はじめに言語の問題がある。言語表現の不可能性/無能性についての問題が。言語とは体験そのものではないし、わたしたちが今まさに見ている世界そのものを記述できるわけでもない。言語とは、隔たりであり、障壁であり、空想であり、虚偽であり、決して達成できない結果を求めてなされる虚しい努力であるということ。そのことが問題となる。
言語においては、また別の見方もできる。すなわち、言語とはわたしたちの存在様態そのものの写しであり、上に挙げた問題は、そのままわたしたちの存在それ自体に対しても当て嵌まることである、と。要するに、わたしたちの存在とは、隔たりであり、障壁であり、空想であり、虚偽であり、決して達成できない結果を求めてなされる虚しい努力であるということだ。そして、それはさらに、わたしたちの体験そのものについても言えることだろう。すなわち、わたしたちの体験は、単に空想以上のものでは決してない、と。言語、存在、体験、そのすべてが癒着し合い、互いを支え合うことによって、わたしたちはどうにかこうにか、現実を疑問に伏すことなくやっていけている。しかし、ときにそれは脱輪し、問題として浮かび上ってくる。
このような問題 ー 人を悩ませ、絶望させ、ときに自死に追い込む ー は、どのようにして発生するのだろうか。このような問題を問題視するのは一体誰なのか。
例えば、ある人が、友人から裏切られたと感じているとしよう。それは、「ある人」と「友人」という二つのsubject主体/主観性の間の齟齬によって発生したと、ひとまず言われるだろう。裏切られるためには、まずは信じなければならない。「ある人」は、決して超えられない障壁の向こう側にいるはずの「友人」のsubjectの様態と相を信じたわけである。しかし、信じるということは、どのようにして行われるのだろうか。そのsubject ー あるいは「ある人」と指示されるその存在様式 ー は、信じる前に何をしたのか。
ここで、「ある人」と「友人」の出会いを再構成してみよう。そこで行われていることは、すでに固定されて変容しない確固たる存在を保持した「ある人」が主語として立ち、その人=subjectが、同じく確固たる存在を保持した対象=「友人」=subjectの様態と相を感受し、すでに確固たる体系を持った意味の場の記号を組み合わせて一つの同一的な意味を生成する、というようなことではない。「ある人」が「友人」を信じるということ、それは、何もない空間で行われる。はじめに「ある人」はいない。「ある人」は、決して体験の基体ではなく、その前提条件でもない。むしろ、「ある人」が体験/存在するために、subjectの原理principle(※1)は作動するのだと言える。なぜなら、原理としてのsubjectは、まだ何ものでもなく、どこにもいないからである。「ある人」は、完全に形を成したボールが芝生の上を転がっていくようにして、存在しているのではない。「ある人」の存在は体験とともにあり、そこから引き離すことはできない。存在は体験の後にのみ、それを体験したものが振り返ることによってのみ見出されるのである。したがって、体験の前にいる「ある人」などというものは、どこにもいないのである。
subjectは、"what"、"where"、そして最終的には"who"を手にするために、"how"を作動させ、"when"の系列に足を踏み入れる。わたしたちは常に時間的存在であり、時間を持たないものは存在しないのである。もちろん「ある人」は「友人」と出会う前から、過去を持つ能動的に統一された連合(諸原理、諸知覚、諸経験)であっただろう。しかし、「友人」との関係=その存在と繋がり、を信じるという行為がなされるその場には、まだ疑問詞のどれも見出されない。出会いとは、すでに存在する「誰か」と「誰か」が互いの存在を確かめ合うことではなく、新たな時間の中で存在を生成することなのだ。
「ある人」は最初に"which"を問い、それに答えることから始める。その問いとは、「わたしたちの目に何が見えるのか」というものである。わたしたちは、明らかに目に見えるものすべてを見ていない。わたしたちは、選んでいるのである。何を見るのか。それは、選択によって、まだ「何もない空間」から、何かを取り出すことである。選択は、どのようにしてなされるのだろうか。それは、視覚の領野から「ある」を抽象することである。「ある」を抽象するためには何がなされるのか。それは、自分以外の主観の視覚に問いかけることによってなされる。すなわち、その主語は「わたし」ではなく常に「わたしたち」である。「ある人」は、「見えるもの」を「友人」とともに、さらにはこれまで知覚をともにしてきたすべての人たちとともに見る。
「思考は他人への関係であると同様に、自己と世界への関係でもあり、したがって思考は三つの次元に身を置いていることになる」とメルロ=ポンティは言う(モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』みすず書房 201頁)。体験について思考する「ある人」には一種の布置のようなものが働き、それが、彼が知覚したものを「三つの次元」に配置させる。それは、わたしが自らの分身として視線の先に何かを見出すことでもある。
そのようにして、「ある人」は、体験の現出(※2)を捉える。そのようにして、「ある人」は、体験を自分と向かい合う一つの対象として現成(※3)させる。そこには、一つの現表(※4)が見出されることになるだろう。
「ある人」の目の前にあるものが現出し、現成し、それが現表として見出されるためには、「ある人」に常に自分以外の主観性が伴っていることが重要であり、「友人」はその証人となる。ここでは、二人の出会い、そして関係の構築における体験のズレは殆ど見出されることはないだろう(唯一のズレがあるとすれば、それは、お互いが決して自分では見ることのないものを見ていること ー すなわち、お互いの顔を見ていることだろう)。
二人が構成した現出、現成、現表は、語られることによってさらに多くの人を巻き込むことができるが、語られなければ、それは二人の持つ二人だけの関係として持続されるだろう。
現出、現成は、ただ一つのsubjectの内部によって見出されるものでありながら、その発生はただ一つのsubjectによってなされるわけではない。それは、「ある人」と「友人」の共同作業によってなされると言うだけではまだ足りない。現出、現成は、それを「ある人」に帰属するものとして示す助詞である「の」を、たとえ便宜上でも使うことはできない。これらの「現れ」は、まだ誰のものでもないのである。むしろ、それは誰のものでもないがゆえに現表となる。しかし、ここで「まだ」と言ったのは、それがいずれ誰かのものになるからである。感覚されたものの現出は「ある人」に反射し、「ある人」の生気vividness(※5)を移し込められて、「ある人」の一部として現成する。知覚の表裏は、互いにぴったりとくっつき合っており、それは「ある人」の内と外を同じ一つのものとして繋いでいる。現成されたものは、「ある人」の精神の一部であると同時に対象として外に見出されるものであり、さらに同時に、それは自分以外の人にも「見えるもの」として、間主観的な意味senseと、現実性の関係の網の中で位置を与えられている。現成したものは、「ある人」の実在論的な地平の上で、その現表を演じる。それを「ある人」とともに「友人」は見ている。「友人」は、「ある人」と同じ現実を共有し、「同じ世界にいる」という確信を前提として、お互いの顔を見る。その段階において、初めて「友人」は「ある人」によって捉えられ、その存在を対象として信じられる。そのときには、「ある人」もまた「友人」によって捉えられているということを、「ある人」は確信している。「友人」を存在させるものとした「ある人」は、そこで初めて鏡に映った自分の姿を見る。信じるとは、存在するとは、そのようなことになって初めて現実となる。

"when"に接続されたその二人の関係は連続的な時間系列の中に見出される記憶を持っている。その記憶とは、複数の"what"と"where"の連合である。要するに、関係とは、それぞれの確固たる存在を保持した二つの主体を線で結ぶようなものではなく、同じ場に居合せ、同じものを知覚する二つの主観が、お互いの知覚を確信し、あまつさえ知覚される対象が、お互いの知覚を確信することによってのみ浮かび上がるような体験を共有することによって築かれる。
「友人」は、「ある人」によって反射されることによって"who"となっている。「ある人」は、「友人」に反射されることによって"who"になっている。関係とはそういうものであり、その根底には、人間的自然の諸原理と間主観性がある。「ある人」は、他者としての「友人」の存在を友人として見出すに至ったのである。
そのようなものとしての「存在」、そして、その写しとしての「言語」には、裏切りや齟齬は見出されない。それが、「隔たり」「障壁」「空想」「虚偽」として見出されることは決してないだろう。なぜなら、「ある人」と「友人」は、それらのものと共に溶け合い、それらと一体化し、それらをもってして存在しているのだから。主体と存在、存在と言語は同じ一つのものとして溶け合い、統一されることに成功している。したがって、主体が存在を、存在が言語を、言語が主体を、相互に排他し合い、懐疑に伏すようなことは決して起こらない。それが体験である。
ここで、ようやく先程の問いに答えることができる。
「このような問題を問題視するのは一体誰なのか」
それは、存在を手に入れた「ある人」であり、「友人」である。「何もない空間」には、問題視されるべき何ものもない。その空間にはまだ誰もいない。裏切る人も裏切られる人もいない。「誰か」が「ある人」になるために、バラバラの諸現出を諸現成に、バラバラの諸現表を同一的な一人物の表現に、まとめ上げたのである。問題は、そのようにして生じる。裏切りとは、同一化し、固定されたものが、新たに始まった生成と矛盾することである。
言表は、互いに否定し合う言語ではない。同様に、現表は排他的でないがゆえに可視性を持つのであり、またそれゆえに表現によって隠されもするのである。
生成そのものとしての言語=言表=現表は決して矛盾しない。それならば、わたしは、問題なく語るために注意しなければならないということであると同時に、問題なく語ることができるということでもある。すなわち、悩ませ、絶望させ、ときに自死に追い込まれることのあるような言語と存在を、避けて通ることができるということである。そのためにわたしは、生成を信じる。発生を見つめる。誰のものでもない束の間の存在と共に明滅する。
わたしは、俯瞰的に見るわけではなく、また客観的に見るわけでもない。わたしを客観的に見るのはわたしの他者であり、わたしはわたしの他者のその視線を再構成することによってしかわたしを客観視できない。
存在と言語は、ともにその不可能性と無能性を存在の住処とし、その隔たりをこそ自らの実存として開示するのである。

3

素材が、主体subjectとの出会いによって変化し、それでもなお素材としての存在様式を持ったままで、しかし、それは別の存在様式を、例えば「ロボ」であるとか、「作品」であるとか、「積み木」であるとか、そういった何か素材とは異なるものを「見えるもの」にしながら、「置かれる」。光の存在様式。「置かれる」という言葉の意味もまた、出会いの前と後とでは異なっている。素材として見出されたそれは、まだ誰のものでもないものとして、転がっている。「置かれる」ということのその意味は、主体subjectとの出会いによって、マルセル・デュシャンが言ったような意味(※5)で「選ばれ」、加工され、「わたしのもの」となって、そこに立つようにして「置かれる」。しかし、それがまだなお素材でもあるということは、それが変容の中に置かれているということであり、新たな出会いの可能性に開かれているということでもある。誰かが加工したものとして置かれたそれは、また別の誰かの手に取られ、新たな色を塗られ、あるいは鑢にかけられ、接木され、釘を打たれて、異なる光の存在様式を持ってまた「置かれる」。スクリーンの前に置かれたそれは、プロジェクターから映写される光を浴びればまた違った存在様式を持つ。素材であることをやめないということは、決して完成しないということであり、変化し続けるということである。それは、存在の矛盾、関係の齟齬をしなやかにすり抜ける。
「ワークショップworkshop」は、対象や出来事を表すものではなく、その正確な意味で場を指し示すための言葉である。それは、形式として"where"の問いに答えるものであり、この語を用いるものは、常にその問いに答えなければならない。その問いは、例えば、「浜松」とか「東京」、あるいは「公民館」や「パルテノン神殿」などといった答えを期待しているわけではない。ワークショップworkshopが指し示す場は、一つの作業場としての現表の主体が占める位置と正確に重なっている。ワークショップworkshopと現表は、主体subjectを人格的存在でも生理的欲望の担い手でもなく、場所として指し示す(※6)。主体subjectは、繰り返し変異を反復しながら、しかし、生気が永遠に回帰するべき場所としてそこにある(※7)。主体subjectの受動性とは、それが場としてあらゆる力を変容の媒介とするものであり、それの能動性とは、問いの飽くなき生成と成就を保証するものである。量産される、答える欲望を内に秘めた無数の問い。"which"と"what"と"when"。しかし、主体subjectが自らを必ず回帰するべき作業場として問う"where"の答えは、決して"who"の答えと同一ではない。"who"の答えを口にすれば、ワークショップworkshopは終わってしまう。それは決して口にしてはならないタブーなのである。
永遠に回帰するべき場所として用意された主体subjectは、名乗るべき名を持たない可塑的な肉(※8)である。
素材は変化を経た後でも素材であることをやめず、署名されることもなく、次の変化に晒される。変化には決まった手順はなく、終わりもなく、決して消滅もしない。そのような場がワークショップworkshopであり、その反復、その円環は止むことなく繰り返されなければならない。サーカスcircusの語源は、ラテン語のキクルスcircusで、「輪」「回転」を意味する。
現出と現表のその現場には、生気vividness(※9)が存在を求めて飛び交っている。生気、それは幽霊のように対象に取り憑くが、しかし、決して一つのところに止まり続けることのないものである。生気は存在を、存在は第二の光を求めて運動し続ける。わたしたちは、幽霊を綜合することによってのみ存在している。それは、力の束を持つことでもある。互いに信じ合うことによって統一される力の束。しかし、信じることは、力を拘えること、対象を生気によって生成し、それに拘ることでもある。それらの束とは、拘束をも意味する。拘りに拘えられぬように、滑らかにそれをすり抜けること。変化にこそ生気を注入することこそが重要なのである。
現表とは、生気の動きを捉え、見えるものとすることに他ならない。わたしたちがその場で見るものは、現表であって表現ではない。それは、参加者の身体=肉を媒介とした、内と外、生気と幽霊、無数の視覚、触覚、聴覚などが力のひしめき合いを演じる場を見るものである。
参加者たちは、何か明確で具体的な目的、「○○を作る」とか「○○を習得する」といった目的を持ってやって来るわけではない。チラシを見ても、そこで何が行われているのかはまったく分からない。参加者がファシリテーターに最初に聞くことは決まって「ここでは何をしているんですか?」だった。もちろん、この問いに答えるための「何」には、明確な答えが用意されている。しかし、この「何」は、今度は代替可能なものとして、単に始まりとしての場を開くものとしての役割しか持たない。なぜなら、その「何」には内容だけがあり、合目的性purposiveness(※10)は与えられていないからだ。参加者は、あらかじめ合目的性purposivenessによって生気を吹き込まれた社会的に価値を持った課題を与えられるわけではない。「何」に生気を与え、それを主体生成のための契機とするのは参加者自身の能動性にかかっている。能動性とは、生気vividnessを素材、出会った人に吹き込み、自身の分身にすること以外ではない。しかし、その分身は、素材であり続けることによって常に変容し、また別の誰かの分身となるべく加工される。多孔的で、幾つもの顔を持った素材が出来上がり、しかし、決して完成しない。わたしたちはそこで ー 現表によって表される主体が占める場で ー 作品を作るわけではない。わたしたちはアーティストではない。その場では、決して作品を作れない。その場では、決してアーティストにはなれない。場を開示し、参加した何かが変容し、生成の素材となる。それが、現表が指し示すworkshop circusという場所だった。参加者たちが経験するのは、形式的目的性の成就ではなく、正に「肉の延長(※11)」と言うべきものなのだ。


※1 ここでの、原理principleという言葉は、ヒューム/ドゥルーズの経験論に依拠している。精神に能動性を付与、あるいは賦活し、主体性として生成するための性質を言う。原理principleの意には多義性があり、大きく二つに分けられる。一つは、接近、類似、因果性と言われる連合諸原理であり、これが、印象とそれが精神に反射したものとしての観念のコレクションを作成する。もう一つは、情念=合目的の原理であり、これが「コレクションのなかで、或るいくつかの感覚的印象を、他の感覚的印象のあいだから選び、選択し、指名し、呼び出す」(ジル・ドゥルーズ『経験論と主体性』河出書房新社 181頁)。原理としての主体がまだ何ものでもなく、したがって、厳密にはまだ主体以前のものであるのは、主体が何ものかへと生成するためには感覚的素材が必要であり、またその感覚的素材は原理の効果を受ける前には、主体同様にまだ何ものでもないからである。

※2 現出は、ドイツ語で一般的に「現象」と訳されるErscheinungの訳であるが、ここでは現象学用語の意「直観や想起のような、そこにおいて対象が現れ出てくる具体的な体験」(『現象学辞典』弘文堂 119頁)として用いている。現出は、ヒューム/ドゥルーズの記述する原理と感覚的素材の出会いの後に行われる布置によって見出されるものと思われる。

※3 現成は、普遍的で恒常的な性格を持つ本質を意味するドイツ語wesenの日本語訳。ハイデガーはこれを、事柄がその本質的なありかたのうちで、本質essentiaと現実存在exsistentiaとが不可分な仕方で一体化されて立ち現れるさまを言い表すために動詞的に用いた。ハイデガーによると、本質とは、西洋形而上学が考えるような現実存在と区別されるようなものではなく、思索を本質とする現存在としての人間との共属関係のうちで時間的動的に現出するものである。ハイデガーは、「存在」あるいは「生成する」を意味するギリシャ語physis/phyesthaiの訳語に、このwesenをあてている。本質と現実存在との二義的分岐を免れた現成wesenは、その普遍恒常的な性格を、ヒューム/ドゥルーズの言うような人間的自然の諸原理によって付与されることが必要となり、それは現象学から経験論の領野への問いへと送り返すものであると言える。

※4 現表は、ミシェル・フーコーの概念である言表l'énoncéを言語以外の領野に拡大するための造語である。この造語には、言表に、ドゥルーズの指摘する「可視性」の概念が含まれているが、これはメルロ=ポンティの言う「見えるもの」とも無関係ではない。現表を理解するには、まず言表の概念を理解する必要があるが、これを細密に記述するためには、改めて一つの論文を書く必要がある。ここでは言表および現表についての簡単な素描にとどめる。詳しくは、ミシェル・フーコー『知の考古学』を参照されたい。言表を積極的に定義することは難しい。なぜなら、それはわたしたちの常識的な記述/読解の仕方とは異なった平面を持つからである。フーコー自身、『言表を定義すること』の節でも殆ど消極的な定義しか与えていない。言表は、「一つの構造ではない(つまり、さまざまな諸要素のあいだの関係の集合として無数の具体的モデルを許可するようなものではない)そうではなくて、それは、諸記号に固有のものとして帰属する一つの存在機能である」と言われる。この「存在機能」が現表を理解する手掛かりとなる。言表は、「諸記号の集合を存在させ、そうした規則やそうした基準形の現働化を可能にするもの」であり、「それらを、一つの言語体系の構成要素としての諸記号の存在とも、空間の一部を占めて多少とも長いあいだ持続するしるしの物質的な存在とも混同されえないような様式において存在させる」。フーコーは、この「特異な存在様式」の例として、「タイプライターのキーボードは、言表ではない」が、「それと同じ文字列、つまり、A、Z、E、R、Tという文字列が、タイピングのマニュアルのなかで列挙された場合、それは、フランス語のタイプライターによって採用されたアルファベット順の言表である」と説明している。また、フーコーは「言表の主体を、文の内部に現前する一人称の文法的要素に還元してはならない」「「作者」は、言表の主体と同一ではない」「言表の主体は、実体的にも機能的にも、言述を行う者と同一ではない」と言う。そのかわりに、「言表の主体は、さまざまに異なる個人によって実際に満たされうる特定の空虚な場所」であり、「その場所は、言表としてのあらゆる言述を特徴づける一つの次元」であり、「それは、作者と作者が語ったこととのあいだの諸関係を分析することではなく、あらゆる個人にとってそうした言述の主体であるために占めることが可能かつ必要な位置とはいったいどのようなものであるかを決定すること」である。フーコーの考えた独創的な「言表」の概念は、しかし、言語に限定されるものである。ドゥルーズは、「還元不可能なしかたで言表とは区別される」ものとして「可視性」を挙げている。ドゥルーズは、小論文『ミシェル・フーコーの基本的概念について』で、現表と可視性の関係をこう論じている。
「言表は、たとえ隠されていないとしても、決して直接読みうるものでも、言いうるものでもない。言表が読みうるもの、言いうるものとなるのは、それらを可能にし、それらを「言表的土台」に刻印するような条件との関連でそうなるのである。条件とは「言葉がある」ということ、つまりそれぞれの地層上の言葉の存在様式であり、言葉が存在し、満たされ、かつ集積される可変的な仕方である。 ー 可視性についても同じことがいえる。可視性もまた決して隠されることはないが、たとえ隠されていないとしても、それなしでは可視性が可視的ではあり得ないような条件を備えている。 ー こんどは条件とは光であり、光の「ここにある」であり、それは地層によってあるいは歴史的系生物によって変化する。つまりそれは光の存在様式であって、それこそが閃光そしてきらめきとしての、「第二の光」としての可視性を出現させるのだ」
この「第二の光」に非常に近いものと思われる経験について、メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』でこう表現している。
「文学や音楽やもろもろの情念や、だがさらには見える世界の経験ですらも ー 見えないものの探査であり ー 理念の世界の開示なのである ー 現象は未知の「力」ないし「法則」の変装なのである」
現表と現出、現成との関係についても簡単に論じておく必要があるだろう。現成とは、現出の一種、あるいは現出のある段階を示している。フッサールが本質直観と呼んだものには、それが成立するための段階のようなものがあり、それが抽出されてくるためには、ヒューム/ドゥルーズ的な原理の作用を待たなければならない。視覚の原理は、ここでは「光の存在様式」と表現されている。現成とは、明らかに原理が間主観的な段階に達していることを示している。間主観的な知覚認識と「第二の光」は近しいものを示す言葉としての関連性があるように思える。メルロ=ポンティはこれを「理念の世界」と表現している。しかし、ここには二項対立の解消を目指す傾向の強い現象学と、段階とその分裂を重要視するドゥルーズ哲学との対立がある。現表とは、決して解消できない認識の差異に引かれた描線を、その存在様式にしたがって再構成するものである。そこでは、現成は現出に還元されず、全く別の意味作用を伴った運動の結果だと考えられなければならない。現象学にとって、存在は物質的世界と同じ平面に立つ身体=肉であり、認識の差異は「否定性」と表現される。逆に、フーコー/ドゥルーズにおいて差異は実在的であり、「肯定性」と捉えられる。しかし、メルロ=ポンティは晩年に至って後者の考えにかなり接近している。現表とは、この還元不可能な差異の肯定性を表している。

※5 マルセル・デュシャンの代表的なシリーズであるレディ・メイドは、デュシャン本人が制作したものではなく、既製品の中から彼が「選んだ」ことにより作品となる。デュシャンが、リチャード・マットという偽名を用いて展示した彼の代表作『泉』に言及した彼の言葉は有名である。
「マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ」

※6 ※4を参照。

※7 永遠回帰Ewig Wiederkehrenは、フリードリヒ・ニーチェの最重要概念の一つ。ここでは、ドゥルーズのニーチェ解釈に多くを負っている。
「『ツァラトゥストラ』のなかでニーチェは二度ほど、《永遠回帰》が《同一的なもの》を回帰させる円環であるという点を明確に否定している。 ー 一方には、ニーチェの倫理学を構成する意志あるいは思考の選択がある。すなわち、永遠に回帰することを同時に欲するようなものしか欲しないこと。 ー 他方には、ニーチェの存在論を構成する《存在》の選択がある。すなわち、語のもっとも完全な意味で、生成するものだけが回帰し、それだけが回帰する能力がある。能動と肯定だけが回帰するのだ」(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』アメリカ版への序文 河出書房新社)

※8 肉(chair:仏)は、メルロ=ポンティ後期存在論の主要概念。知覚の二面性、すなわち、見るものが同時に見られるものであり、触れるものが同時に触れられるものであることによって、存在、精神が身体と同一平面上にあるものとして開かれることを表している。
また、可塑性(plasticite:仏)は、カトリーヌ・マラブーの主要概念。形を受け取り、また形を与える能力の意とされる。

※9 生気vividnessは、ドゥルーズがヒューム哲学から取り出した概念。諸原理が精神を能動化させる際に働く基本要素で、常に諸原理に伴うものだが、それとは明確に区別される。
「It "advises certain ideas rather than others.""To transcend" means exactly this.
A relation between two ideas is also the quality by means of which an impression communicates to that idea something of its vividness.」(Gilles Deleuze"Empiricism and Subjectivity")
vividの意は、「生き生きとした」「色鮮やかな」で、その語源は、viv=liveであり、vividとはto liveを意味している。ヒュームの使う生気vividnessという言葉には、色と生活とに密接な関わりがある。人が何かを知覚するということと、それに生気を移し入れることには、日常的に色を感覚することがその底にある。メルロ=ポンティもまた、『セザンヌの疑惑』『見えるものと見えないもの』などで、視覚認識の基底としての色について論じている。ワークショップ当日は、個人的に「色ってなんだろう?」というテーマで参加者たちに質問をし、議論を行った。

※10 合目的性purposivenessは、ヒューム哲学を分析したドゥルーズによって、外在的関係としての観念の接続可能性が、精神によって能動的に実現されるためのものとして指摘された概念。実現は、行動によってなされる。

※11 「一つ一つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつきないし重複によって出現して来たもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、彼が自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものが彼の目にとって彼の写しないし彼の肉の延長のごときものとなることなのである」(メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』158頁)

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