見出し画像

見えないものに溢れた世界で

明け方四時頃、向かいの家にオートマ車が止まる音で目が覚めた。
時間が時間なだけに、強盗かもしれないと思い耳を澄ませた。どうやら向かいの家の息子の友達だったようで、息子のバイクの音とともに車の音も遠ざかっていった。
ほっとして布団に潜り込んだ。

ガチャッ

私の部屋の下に位置するキッチンの裏口が強く引っ張られた音がした。
ホストマザーが起きるには早すぎるし、そもそも内側から鍵を開錠したとすれば静かに開けられるはずだ。
しばらくすると、我が家の犬が激しく吠え始めた。普段は家の敷地の外に向かって吠えているのに、今日は内側で何者かに吠えている。だが、その声も「キュイーン」という声を最後に聞こえなくなる。

コンコン、コンコン

キッチンの窓を外から軽くノックするような音が聞こえた。その音は裏口から玄関の方へとゆっくり移動していく。
風が窓を叩く音であれば、何枚かの窓からいっせいにガタガタという音が聞こえてくるはずだが、そうではない。一枚ずつ、確かめるように叩く音だ。窓の内側には網戸がついているため、内側から叩いているわけでもない。
私は今度こそ本当に強盗かもしれないと思い、布団をそっと抜け出した。カーテンの隙間から、音のする方を覗く。

誰もいない。

背筋が寒くなり、私はひとまず安全圏である布団の中に戻った。
その後もしばらく音は続いた。窓を一枚ずつ叩く音。
それから十分ほど経つと、音は徐々に小さくなっていった。

ガチャ、ダン!

突然、玄関を内側から開ける音がした。
慌てて布団から飛び出し、カーテンの隙間を覗くと、ホストマザーが家から出てきたところだった。手には草刈り用の鉈を持っており、その姿はなかなかのホラー感がある。
彼女は玄関周辺に誰もいないことを確認してから、家の周りを一周回って家の中に戻っていった。
それに安心して、私も布団の中に戻った。

朝六時、寝不足を感じつつキッチンでコーヒーを入れていると、ホストマザーが「今朝、変な音が聞こえなかった?」と話しかけてきた。
彼女も私と同じように向かいの家の息子が出かける音で目が覚め、それから少しして裏口を開けようとする音と、窓を叩く音を聞いたそうだ。彼女は、家の裏口周辺には灯りがなく暗がりになっているため、そこから強盗が家に入ろうとしているのだと思ったらしい。すぐに諦めて帰るだろうと思ったが、窓を叩く音があまりにも長く続くものだから、犯人が誰か突き止めようと、キッチンからこっそり窓の方を覗いたそうだ。
家の中からは誰も見えなかったため、思い切って玄関から外に出て、見回りをしたという。だが、外では犬が怯えているだけで誰もいなかったということだ。

私も二階の窓の外を確認したが誰も見えなかったと言うと、ホストマザーは納得したように「やっぱりね」と言った。

「ご先祖様が気になることがあって見にきたのかもしれない」

ホストマザーはそうに違いないと言って、家の神棚や両親の写真に線香をあげた。
早朝の音の正体がなんだったのかはわからない。だが、そこに「誰か」がいたということだけは確かだった。
私も彼女と一緒に手をあわせる。

ホストファザーが倒れる前、彼は見えない何者かがいるかどうかは誰にもわからないと言っていた。誰にもわからないのに「いない」と決めつけるのは、見えないものを「信じる」と言うのと同じくらい非科学的な態度だと彼は言った。信じても、信じなくても、そこに存在するのだからと。
そうした存在たちとともに、私たちは在る。

私たちが見えていなものたちに見られているということは、案外よくあることなのかもしれない。
昔、母からよく「箪笥の上から神様が見ているよ」と言われたことを思い出す。

小さい頃から周りの人たちに、神様が全部見ているから悪いことはしてはいけないよと言われて育った。
この神様は、一神教の神様ではなくて、私たちの身近にたくさんいて、助けてくれたり、助けてくれなかったりする神様たちのことだ。

私の祖父の家系は、漁港で祈祷を行うなど、神様たちを身近に感じながら生きてきた人が多かったらしい。祖父は神主だった。今となっては、実際に先祖が何をしてきた人たちだったのか、私も親族もよく知らない。
それでも、家族や親族が集まると土地の「雰囲気」や、何者かの「気配」、「夢」といったものが話題に上ることが多い。人によっては「見える」時期があったり、普段以上に「感じる」タイミングがあったりもする。

こうしたことが「普通」ではないと知ったのはおそらく中学生くらいの頃で、そのことについて考えるようになったのは文化人類学を学びはじめてからだ。

文化人類学の調査地の話として出てくるアニミズム。私にとってそれはここではないどこかの話ではなく、いつも自分ごとだった。それと同時に、そうした話を他人事として分析しようとする友人たちとの断絶も感じていた。
調査地であるゾウの村にいて落ち着くのは、私が生まれ育った世界と似た世界を彼らが生きているからだろう。

私たちの世界は、日常の中でほんの一時しか姿を表さない。だから不意打ちをくらうことはほとんどない。
けれど、ここにいると日常のいたるところでクアイの世界が立ち現れ、驚き、慄き、祈らざるを得ない。
私はクアイの世界の片鱗を垣間見ることしか出来ないけれど、それでも見えないものや見えるはずのないものたちと遭遇してしまうことが多々ある。

森から聞こえてくる友人を呼ぶ声。
家の中でたびたび見かける赤い服を着たお婆さん。
死者を嘆く群衆の声。
いるはずのない白いウサギ。
そして、明け方四時のあの音。

こうした話は、何かを意味する例え話や作り話ではなく、私も含めてそこにいる人たちが経験する現実として立ち現れる。
「信じる」とか「信じない」の前に、リアリティをもって存在する。

近年の文化人類学では調査地の人々の語りなどを「真剣に受け取る(taking seriously)」ことの重要性が説かれている。だが、フィールドにいると、「真剣に受け取る」以前に、そうした現実に常に既に参与している。

この見えないものに溢れた世界を、私(たち)は生きている。
それは、とても当たり前で、普通のことで、私は今でも日本の友人たちがどんな世界を生きているかの方がよくわからないでいる。

よろしければ研究費のサポートをお願いいたします。頂いたサポートは書籍の購入や調査旅費に使わせて頂きます。