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面倒くさがりではない。だらしないだけ


何もかもがめんどくさいとよく思っていた。
めんどくさいから何もしたくない。
ああ自分は何て面倒くさがりなんだろうと、でもそれが自分だから受け入れなきゃ、私は面倒くさがりなんだ、と思い込む日々。


思い込みは怖い。
すぐ何でもかんでも思い込む。
自分の感性が健全なところからずれている上で思い込む。

それはまた別の話で、私の友人に、「私面倒くさがりやねん」と自分を評する人がいる。
彼女の家で餃子を作って食べたある日、食事の後片付けの話になり、私は「めんどくさいから次の日とかまで洗い物残したりして、シンクにめっちゃ食器溜まる」みたいなことを言ったと思う。
その時に返ってきた、私のとは真逆の彼女の答えは、数年経っても何故かずっと頭に残っていて、今回のこの気付きのきっかけとなった。
そう、彼女は面倒くさいから、すぐに片付ける、真の面倒くさがり人間だったのだ。

当時は、私とは違うタイプの面倒くさがりなんだな、食べ終わってすぐに後片付けができるなんてすごいなと思っただけだった。
同じ面倒くさがりで、何故こんなに行動に差があるのだろうとも感じたが、突き詰めて考えてみるところまでは行かなかった。
しかしその数年後、私はやっと気付いた。
洗い物が面倒くさければ、風呂も歯磨きも、眠ることさえ面倒くさい。
しなければならない家事も何かしらの公的な手続きも、伝えなければならない報告も、全て全て何もかもが面倒くさい。
だからやりたくない。
面倒くさいからやりたくない。
だから先延ばしにする。
パッとやってしまえばすぐに済むのに、数分で終わることも、たった1日やりくりすればあっさりと完結することも、今やりたくないから、とズルズルと先に延ばす。
私と友人は何故こんなにも違うのだろう。
彼女はすぐに行動し、私は行動に移せない。
何が違うのだろう、同じ面倒くさがりなのに。
面倒くさがりというカテゴリにおいては、同類であるはずなのに。


違うのだから、同じなわけがない。
先延ばしにした方がより面倒になるに決まっている。
それが分かっているのなら、そうならないうちに動くだろう。
それができない私はひょっとして、面倒くさがりではないのではないか。


私はすぐにダラダラする。
食事の後はもちろん、朝起きた後。むしろ朝に起きることすらしない日も多い。
昼近くまで寝て、起きてご飯を食べてアルバイトに行く直前までダラダラして、帰ってきてダラダラして、夕飯を作ったり作らなかったりして、食べた後は当然寝るまでダラダラする。風呂はメイクをする前か、時々は寝る前に入る。
そういう動きの生活をしている人間を一言で表すと、だらしないのだ。
ある日突然、自分の行動を思い込みのフィルター無しで冷静に思い返せるようになったと思ったら、気付いてしまった。
私はただだらしない人間であるだけで、面倒くさがりではなかった。
真の面倒くさがりとは、後々面倒なことにならないように行動できる、現実的で合理的で理性的な人のことを言うのだ。


自分がだらしないということをやっと自覚できて、それですぐに人生ラク〜に生きられる人間では私はなかった。
自覚の後は、お決まりのように自己嫌悪が待っている。なんせ私はそういう性質の人間だから。
自己嫌悪から自己受容に至る過程は、また別の話。




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