泉をそそがせて

元気がないと本が読めなくなるが、元気すぎても本が読めなくなる。

元気すぎると、というのは、文章を理解はできるが、単語のひとつや台詞回しにいちいちエウレカ!というような気持ちにさせられ、風呂場を飛び出し、そのとき感じた感情や思い出した情景をどこでもよいから書きつけておきたくなってしまう、ということだ。
それが学術書や参考書であったらあとで手帳にでもまとめればいいでしょ、続きを読みなさいと理性が諭してくれるのでまだよい。口を尖らせたエウレカは脳の隅にしずしずと移動する。

でも小説や詩集なら大変だ。

(今すぐに音読をしてこの素晴らしい言葉たちの口触りを確かめないと!先日観た映画のドレスはうっとりするようなシルエットをしていた!ああ昔私が遊んでいた橋は赤かった!優しさとは主観的なものであるのにあの曲の歌詞といったら!素敵な熟語だ、いつか使えたら素敵!)

気が散るどころの騒ぎではない。それに私はマルチタスクができない。今だってマルチタスクは日本語でなんというのか気になって調べてきてしまい、一瞬タブが増えててんやわんやになった。一気にこれらが襲いかかってくると目で文字をなぞるのも難しい。せめて一列に並んでください!!!と叫びたくなる。

さて、私はこの状態のことを「泉」と呼んでいる。泉になってしまったときにどうするかというと、スマホや手帳に手を伸ばす。読書は再び中断され、栞を挟まれた本はしばらくの間は構われなくなる。
なんて効率の悪いこと。手元に本以外のものがあるから駄目なのではと思って、本だけで読書に挑んだことがある。(そもそも読書が記録などと一緒くたになっていることがおかしい。)それでも、私は泉になると、本を閉じて、そわそわとあたりを見渡し、観葉植物などを見つめて思案に耽ってしまう。
泉に私は抗えない。私そのものに私は抗えないのだ。

観葉植物。
うちにはパキラが二つある。ひとつは私が数年育てているパキラ。ひとつは他の人のパキラだ。
嘘だった。
今見ていたらひとつはカポックだったようだ。もしかするともう一つもカポックかもしれないが、確かめる術がないのでパキラということにする。
しばらく前からカポックが己の生長と土の少なさに耐えかねて傾いている。傾いている姿は愛らしいので、そのまま愛でていたいとも思ったが、それは私のエゴなので植え替えをしたい。土ってどこにあるんでしょうか。外から取ってくると不本意に様々なバイオが家に参入してきてしまう可能性が大いにあり、おいそれととれる選択ではない。バイオ側にとっても迷惑な話である。
ああ土の量り売りがあってほしい。可哀想なカポックにのびのびと呼吸してほしい。
そしてパキラと一緒に、泉になった私の、うつろであたたかな眼差しを一身に浴びるのである。